10月24日例会  
箱根旧街道を下る
元箱根石仏群と湯坂道18`
八柳 修之
   1601年、家康によって東海道五十三次、宿駅制がしかれるまで、鎌倉・室町時代、京・鎌倉往還の官道であった箱根道の湯坂道を歩こうという企画である。この日は夜来の雨も上がらず朝から小雨だった。にもかかわらず、集合場所の恩賜箱根公園には112名もの熱心なウォーカーが集まった。

   雨で滑りやすいので細心の注意と準備体操の後、10時定刻どおり出発した。すぐさま旧街道杉並木へ入った。樹齢300年、400余の杉が残る並木道は小雨に煙り、一瞬、あたかも水墨画、幽玄の世界に入ったかのようであった。そんな想いはほんの僅かで10時10分には旧道を出て国道へ。だが箱根神社の一の鳥居を右に曲がると再び旧道であった。興福院の先、一列になって登る坂道は早くも旧街道の趣あり。旧東海道の標識、英訳では old tohkaido highway とのことであるが、highwayとはチト違和感がある。

   10時32分、旧道石畳に入る。石が大きく、滑りやすくて歩きにくいが下りよりよかろう。この坂、権現坂という。急坂で足元注意である。権現坂の碑から5分余り、六道地蔵への石標を左へお玉が池方面へと進む。途中旧東海道(県道)を横断して再び、石畳が多少残っている山路を歩く。この辺りは針葉樹と落葉樹が混生している。

   10時55分、お玉が池に到着、思ったより小さな池である。関所破りのお玉が処刑され首を洗ったなどの伝承がある所である。列詰、小休止。

   お玉が池から精進池まで1Kの標識、実はこの1Kは段差のある石畳の登り路で本日一番の難所であった。1Kどころか3K(きつい、険しい、厳しい)であった。自然探勝道だそうだが、辺りの景色など見る余裕なし。と言っても依然としてガスっていて、和澤夫人が描くヒノキ林の墨絵の世界である。只、急な坂道を滑らぬように足元に注意して登る。
  
   11時20分、国道1号線に出て、25分、精進池に到着、生憎のお天気で精進池も見えず、元箱根石塔・石仏保存記念館内で袖すり合うも他生の縁の昼食をとる。スタンプ押捺後、定刻12時15分出発。

   精進池は鎌倉時代に「賽の河原」に見立てられ、13世紀末に多くの地蔵、石塔が建立され、石仏・石塔群全体が国史跡に指定されているとは、歴史に詳しい大牟田さんの話し。しばらくは歴史のお勉強をしながら歩く。最初に見たのは、1,300年に彫られたという最大の磨崖仏六道地蔵、4年前に鞘堂ができ暗くてご尊顔できない。応長地蔵、宝珠印塔の数々、さらに芦の湯方面に進むと磨崖仏二十五菩薩があった。二十五体あると言われるが、数える時間なし。安山岩の硬い岩に彫られたので保存状態がよいようだ。その先に曽我兄弟の墓と伝えられる大きな五輪塔があった。

  文化庁が造った歴史路は国道と合体、コンクリートの歩道を歩く。ぬれた落ち葉とはこんなものか、纏わりついては危険である。芦の湯バス停から湯坂道入口まで900mの標示。芦の湯フラワーセンター前12時35分、湯坂道入口12時50分、国道を離れて右側に入る。道は3人ほど歩ける石ころと草の路、だらだらと登る路の両脇にはアザミ、キリンソウ、あな恐ろしやトリカブト、リンドウを見つけましたと喜ぶご婦人、晴れていれば双子山、駒ヶ岳が見られように、鷹巣山に向けての登り道、ガスって下を向いて歩くしかない。それもよかろう。登るにつれて道はやっと一人通れる路となり、下見の写真にあった両側が紫陽花の道、和澤さんが言うアジサイ街道が頂上まで続く。

   1時、鷹巣城跡(834m)に到着、小休止。鷹巣城は小田原の後北条氏が戦国時代に出城を築いたものであるという。晴れていれば絶景であろうに、でも「まだ一輪咲いていた紫陽花を見つけて感動しました」というご婦人もおられた。
  
   山頂からは急な下り坂となるが、途中に街道の名残の石畳が見られた。浅間山まで10分という標示がある所から、また紫陽花街道となる。それにしても一体誰が植えたのであろうか。今はドライフラワーであるが、6月の花時は見事であろう。

  1時38分、浅間山頂(804m)着、小休止。浅間山とあるから富士山が眺望できるのであろうが、相変わらずのガス状態、予報では午後から晴れる筈だがお山は別らしい。

 50分発、これからは下り一方となる。道の左側針葉樹、右側落葉樹、10分ほどで左から太平台からの道が合流した。この辺りから石畳、まだ落葉しない紅葉が多く見られる。

 2時5分、下界に下りて来たのか、ガスが去り少し遠方の見通しがよくなる。鳥の鳴き声も聞こえ雨が上がったようだ。2時30分、列詰後、落葉樹と藪の中を一列になって歩く。

  3時、再び滑る石畳の道となり、注意しながら15分ほど歩くと早川のせせらぎが聞こえた。

   
  3時20分、湯坂城跡に到着、小休止、城跡は露もない。僅かにかってこの道に砦があったことを示す標識があった。室町時代、小田原に勢力があった大森氏が築城した城云々という。ここで解散式となった。しかし、湯坂道の終点ではなかった。ここから、最近敷き詰められたと思われるスレート状の石畳、足場が悪い急坂で最後の注意が必要であった。3時50分、アンカーが大分遅れて、湯坂道下り出口、国道1号線との合流点に出て今日の例会は終了した。

   とにかく坂道で尻餅をついた人は、何人かいたようであったが、事故がなかったのは何よりのことであった。紫陽花の頃、もう一度歩きたい路であった。    (20021027