エッセイ
おカネと健康
神奈川の隠居人
  昨今は不景気でモノは売れずおカネが大事にされる傾向にある。しかし、おカネそのものの素材としての価値のない、いわば、紙切れ同然、硬貨は金属のカケラでしかない。最初に一万円札を持った人は次の人が一万円の価値として引き受けてくれる期待があればこそである。2番目の人がその無価値の紙切れと一万円の価値あるモノを交換してくれるのは、3番目の人に一万円の商品と交換出来ることを期待するからである。そして、一万円札は人から人へ先送りが期待され、無限にモノと交換され続けていく。もし、仮にこの地球に最後の日がくれば、その一万円を引き受ける人はいない。未来が無限を止めたその日、初めておカネが紙切れになってしまう。つまり一万円の価値とは無限のかなたに住む人(孫曾孫子孫)からの気前のいい贈りものなのである。未来永劫に使われ続けていく期待、幻想に支えられているだけ、という、まこと心細く頼りないものかがわかる。

  そこへいくと「健康」はこうして毎日歩いてしみじみと実感することが出来る。現代はすべて効率優先、急ぎすぎる生活が普通のようである。何でも能率本位「簡単に早く」がキィワ−ド。よって移動するのも車、列車、飛行機と如何に早く楽に目的地に到達するかだけが評価されているような気がする。そこから人間本来の「歩く」ことを奪った。といっては言い過ぎだろうか?ウォ−キングは原点にもどった「歩くこと」の喜びを再発見してくれる。周囲の景色もスピ−ドを出していると自分では見ているつもりでも実際には何も見えてないことが多い。ゆっくり歩くとそれまでの景色と異なる世界が見えてくる。また体内の余分な脂肪はゆっくり歩き続けることによって、少しずつ燃焼していく。燃えるのは脂肪だけではなく、長い暮しの中でたまった老廃物と一緒に「欲望」も一緒に流し去ってくれる、とか。歩くことによって都会生活のなかで傷んだ身体と心を、どれだけ癒してくれることか。人生という長い道のりは、やはり体力気力も必要である。原点の「歩く早さ」でもう一度、人間としての生き方を取り戻したいと思う。