物語 十六夜日記 その1 寺 尾  亮
   東海道五十三次は、大和朝廷の時代に七道の中道として整備された。中道と称されたように普通の海道の一つに過ぎなかった。東海道が日本の大動脈となったのは、鎌倉に武家政権が誕生したことに端を発している。当時、西の京都には伝統と文雅を守る公家政権があり、東の鎌倉には追捕(警察)と問注所(裁判)を司り、諸国の地頭を統制する武家政権があり、職能的な棲み分けをして並立していた。活力に満ち溢れる新興の武家の都は、人々を惹きつけ、猫も杓子ものたとえのとおり、公私を分けず、あらゆる階層の人衆が切り通しを越え鎌倉に入った。海道と末端の枝道・鎌倉海道は空前の賑わいを見せた。
   この時代、二人の女性が海道を往来している。一人は尼将軍・北条政子である。尼将軍の上洛には、はっきりとした政治的な目的があった。尼将軍であるから、警護の軍勢、献上品の荷駄も引き連れた、物々しい軍旅であった。交渉の成果は妥協の産物で、成功は半分であったが、超現実主義者の尼将軍は、まあこんなものかと、納得し帰還の途についた。
 もう一人は尼将軍の上洛に遅れること百年、中世の代表的文人“阿仏”である。 弘安二年(1279)の初冬、阿仏尼(以下尼)は六十歳に近い老齢の身をおして鎌倉に下向した。尼の旅は歌枕探訪の物見遊山などではなく、目的は所領の所有をめぐる争いに決着をつけるため、幕府に訴えで出たのだ。尼は歌壇の尊卑文脈によると、藤原定家の孫・冷泉為相の母と系図されている。結婚に破れ失恋もして三十路を過ぎたころ、後高倉院に侍従していたが、歌道の名門・定家の子為家に見初められ、秘書兼助手として仕えていた。さるほどに、才媛振りも見込まれ正室に納まった。彼女は美貌で利発、文章詩歌の才能があり、しかも家政の仕置にも能力があった。名門の伴侶としてうってつけだったのである。
 夫の為家は、所領である播磨の国・細川の荘を、はじめ先妻の子為氏に与えたが、これを取り上げて阿仏の子為相に与えた。為家が親子ほど歳の違う後家さんに唆されて、ごり押しに出た節も見られる。為家が死去すると、腹違いの兄弟の間で所領争いが起きた。阿仏の子供たちは幼かったので、尼が争いの当事者になった。というよりは戦う切れ者の母親だったのである。はじめには代人を立て、朝廷や幕府の出先機関・六波羅探題に訴訟を持ち込んだが、埒があかない。このままでは子供たちが干上がってしまう。居ても立っても居れなくなった。かくなる上は私がやらねば、と決断は早い。最高裁判所である鎌倉幕府に訴えでることにした。旅支度を整えると、家人に留守中のことをこまごまとを言いつけ、子供に後見人をたて、有力者に後援を頼み後図の憂えを絶ってから草鞋を履いた。
 尼はお供に先夫との間の子、成人の山法師を連れて鎌倉に向かった。初冬の短い一寸の陽を惜しみ、暗いうちに宿を出て、暮れてから宿に入る。強行軍であった。六十近い年齢といっても、現代の長寿社会の人たちとは一回りは違う。駅逓は整備されているといっても環境は格段に不便である。初冬の冷気は骨身にしみたに違いなく、寿命を縮めたと思われる。華奢な老齢の身体を支えたものは一体なにか、子供に対するひたむきな愛情と、信じてやまない歌の道であり、裁判に勝つ信念であった。道すがら、歌枕を訪ね、駅から子供たちに歌をつけて書を送った。死しても筆は絶対に離さない。旅は法師に介添えされて騎乗と徒歩、都を出てから十四日目に鎌倉に入った。当時の壮健者の平均的行程である。落ち着いた先は、現在の極楽寺坂のあたり、月影の谷と称される地の小寺院であった。この谷で長い裁判の沙汰を待ち続けることになる。          
「次号につづく」