物語 十六夜日記 その2 寺 尾  亮

 中世の海道紀行文学はおしなべて、東の都鎌倉を活力溢れる希望の府として讃えている。だが、都育ちの阿仏尼にとっては、荒々しく鄙びた街でしかなかった。

    “東にて住む所は、月影の谷とぞいうなる。浦近き山もとにて、風いとあらし。
     山寺のかたわらなれば、のどかにて、すごくて、浪の音、松風たえず

と心象風景を記している。街から外れた森蔭のこじんまりした寺院の宿は閑静ではあったが、淋しさもひとしおであった。夢の間にもなき夫を慕い、雲井の間にも子供たちを慈しみ、はては涙で枕をひたす。だが、朝がくれば毅然と立ち上がり身支度を整えて、裁判所に日参する。口上人の弁論に口を添え、数珠を持つ手で板の間を叩き、相手側の主張を反論することもしばしばであった。申し立てのないときは、溜まりで所在なげに筆を使い、歌のおさらいをしている。尼の姿は、幕府の武将たちの注目を集めた。歌道宗家の領地と権利を必死で守りぬくその姿は、もはや伝説の人、鎌倉の幕府を守り抜いた尼将軍に重なるものがあった。尼の記録にはないが、志ある武家たちに「古今」の講釈をするようになったのは、自然の成り行きであったろう。企まずして多くのフアンを獲得する結果になっていた。

 十四日間の道中で認めた日記を、尼は鎌倉の宿で整理した。形式は歌枕の紀行文に和歌を添えた典型的な歌物語であったが、この「旅路の章」はどちらかいうと類型的で、とくに独創性に優れたものは感じられない。この歌物語の真髄は、鎌倉で書いた「望郷の章」である。都から届いた最初の便りは、同じく歌道を修める有力貴族の御台所からのものであった。文に添えられた歌一首 “ゆくりなくあくがれいでしいさよいの月やおくれぬかたみなるべき”。尼の返歌、“めぐりあう末をぞ頼むゆくりなく空に浮かれ十六夜の月”。思いもかけず訴訟のため京を出たのは十月十六日、取り交わす歌の中でそのようなわが身を夜空に浮かび出たいざよいの月に仮託して、その表題を「十六夜日記」と記した。

 鎌倉滞在中の記事は、京の身内や、歌道の家の人たちと和歌の贈答でうめられている。気が急くのか息子たちからは、ろくに清書もしない文が届く。それをきめこまやかに批評を加え秀作には合点をつけ、これは思うものには返歌を添えて返す。わが身を焼野のきぎす(雉)にたとえ、可愛さに溢れる涙を払えながら、上達したことを誉め、歌道の道になお一層精進せよと説き続ける。中世の偉大なる教育ママである。女性たちとの応答は、歌詠みのコミュニケーションである。都の様子、縁者知る辺の消息、歌壇の動向、縁組、葬祭など、お茶の間の談義のようにこまごまと情報を交換しあう。詩篇には情愛と哀愁が交錯して漂うのである。

 阿仏の尼、弘安三年(1280)鎌倉で十六夜日記を著わすと、歴史上の文化年表に必ず記載される。この年はどんな年か、四百余州こぞる十万四騎の敵、国難ここに見る弘安四年夏のころ、と膾炙された第二回目元寇の前年である。防衛のため九州に赴く軍勢は海道を走り、往来する軍使はひきもきらず、朝野を上げて国難に立ち向かっていた。物情騒然たる世の中であった。尼の日記には国難に触れた記事は一編もない。速やかな裁判の結審を願って差し出した「献歌」の章にも、ひとこともふれていない。裁判に勝つことしか、念頭にないかのようである。国難の中でも幕府は裁判をなおざりにしていたわけではない。粛々と裁判を進めてはいたが、当事者主義だから時間がかかる。歌道宗家のゴッドマザーも、わが子可愛さで必用以外の周りが見えないのであろうか。

 滞在すること四年、尼は裁判の結果を見ずに鎌倉でなくなった。享年六十歳であった。裁判の結果はどうなったか?って、息子の為相が係争を引き継ぎ、十二年かかってようやく勝訴した。裁判沙汰に自ら手を染めるとは、高貴の女性にあるまじき行ない、と謗る声もあったが、尼の頑張りがなければ今日、家門そのものが文化財である「冷泉家」など、そもそも存在しなかったのである。尼の蒔いた種は確実に実った。冷泉家の祖・為相は母が残した幕府要人との交わりによる人間関係の遺産によって、かれらと深い絆をつくり、顧問格として厚遇され、王朝文化を鎌倉に伝える中心人物になった。以降、室町、江戸三代の幕府に庇護され、歌道・蹴鞠など伝統の公家として存続し、明治になって伯爵家、現代では王朝文化伝統の家門として存在している。

 尼の墓は鎌倉で唯一の尼寺、扇が谷の英勝寺にある。京都西八条の大通寺にも墓はあるが、そちらは分骨されたものであろう。尼の魂魄は鎌倉地にとどまっている、と考えるのが自然の人情であろう。七里ガ浜の浦波の響き、極楽寺坂の松籟を聞きながら尼の心を偲び、道筋をたどりながら英勝寺にお参りし、踝をかえして問注所(裁判所)のある二階堂まで歩くのも、また、一興ではなかろうか。 「完」                    03・3・30記