5月21日例会
村岡の史跡めぐり
  昨夜の雨は朝方には上がり、久しぶりの五月晴れのお天気となった。定刻10時過ぎ、藤沢駅北口サンパール広場を出発、市役所脇から境川沿いを遡り、東橋を渡り今度は川を下る。法務局角を左折すると弥勒寺の住宅地、村岡小学校、幼稚園と狭い道路、田谷藤沢線312号線高架橋下を直進し10時40分、柏尾川縁に出て大船方面へ川を遡る。

  今日の参加人員は268名との知らせあり。川沿いの道は舗装されていない道、雑草が生茂り心地よい感触である。川は昨夜の雨で濁り増水、そんな中、サギが1羽、餌を求めて中州を歩いていた。古舘橋(こだち)の手前、左折すると、岩窟に風化がひどくやせ細った六地蔵が二組、鎮座していた。

 その先、道路を横断すると公園の脇に村岡一族の墓があった。いわれをなんやら書いてあったが、あまりにも小さい規模なので、みなさん、調子抜けした様子であった。案内板が出ていなければ見過ごしてしまうようなところである。次なるポイントは宮前御霊神社、石段を登りお参りする人もいたが、大抵の人はタブの巨木の下で小休止した。

 東海道線を跨ぐ跨線橋を渡ったところが、サカタのタネと住宅展示場、立ち寄ったのは展示を見るわけではなくトイレ休憩のためである。下見の際、お願いしてあったので、ここだけはオープン。今日のウォークコースは公園が多いがトイレはない。いつもコース設計にあたり、トイレ探しが最大の悩みである。

 11時40分、展示場発、武田薬品工業敷地脇の緩い坂道を登る。この工場は本年限りで閉鎖するとか。長福寺の先、右に曲った高台が村岡城址公園、鎌倉方面を眺望できる。丁度12時、50分まで昼食タイム、生憎、木陰となる木が少なく日を浴びての昼食となった。

 ここは大牟田さんの作成資料によれば、1,000余年前、村岡五郎平良文とその五代の居城、平良文は平将門を征伐し、軍功を立てた創草期の関東武者であったというが、現在、居城跡の大部分は少年野球場となりその縁を知るものはなにもない。あるものといえば、村岡城址碑、石は語らずという詩の刻まれた区画整理完成記念碑、そして村岡忠魂碑である。ひときわ大きい忠魂碑には、「日清戦争1名、日露戦争4名、そして太平洋戦争で97名の戦死者の名が刻まれていますよ」と、とあるご婦人が教えてくれた。97名の死は太平洋戦争の規模を物語っていた。中学時代に勤労動員された今日のリーダー浅田さんには、とりわけ感慨深いものがあったようだ。

 公園から左に坂道を下り、高谷小学校の前を通り、312号線に出ると曹洞宗天嶽院である。山門の仁王像は御影石彫りで新しいが、山門は茅葺屋根、水戸公が建立したものとあって歴史を感じさせる。山門を潜ると両脇は新緑の紅葉、紅葉の頃に訪れたい所である。10分の東司(トイレ)休憩。

 天嶽院を出て再び312号線、緑のとんがり帽子のある藤が岡中学前の坂道を下ると滝川という小川、この川沿いの道を進むと御幣公園、感応寺、その先は遊行寺、大銀杏の下で解散であった。遊行寺は時宗の本山、境内めぐりをする人もいたが、大部分の人は気温が上がり疲れたせいか藤沢駅と小田急藤沢本町へと向かった。どうもお疲れさまでした。翌日の新聞を見ると最高気温23度、湿度45%であった。

 写真説明(上から順に) ●風化してやせ細った六地蔵 ●急傾斜の宮前御霊神社の石段 ●天嶽院仁王像と山門
(5・23 八柳 修之