小栗判官と照手姫伝説
八柳 修之
7月28日の例会「遊行の盆」は、藤沢に伝わる小栗伝説のスポットを訪ねます。なんの変哲もないコースですが、小栗判官と照手姫の物語を予備知識として知っていると、ウォークも楽しくなるかも知れません。例会は少人数の歴史探訪ウォークではないので、スポットは案内しますが、大人数を対象に説明することはできません。この一文が多少なりともウォークを楽しいものになれば幸いです。

小栗判官と照手姫の話しは、安寿と厨子王の物語と並んで、講談社の絵本やポプラ社の児童文学全集に収録されていたので、子供のころ、読んだことがあるか、あるいは両親祖父母から聞いたことがあるかもしれません。
歌舞伎や浄瑠璃の演目にもなっていますが、それぞれ内容に大きな違いがあるのが小栗判官と照手姫伝説です。
小栗伝説を記す最も古い文献は室町末期に書かれた「鎌倉大草紙(おおぞうし)ですが、ここでは遊行寺長生院の小栗判官縁起によるあらすじを紹介します。

応永の昔(1394〜1411)、常陸の国、小栗の城主であった小栗満重は、謀反の恐れありという讒言により、鎌倉公方の足利持氏に攻められ敗れた。小栗は十人の家来と共に商人の姿に身を変えて三河国の一族を頼って逃げる途中、藤沢俣野の横山大膳の館に宿をとった。横山は実は強盗で館には多くの女がおり、その中に照手姫という絶世の遊女がいた。小栗はこの照手姫と懇ろになったため、横山は恨み、必ず人を喰うという鬼鹿毛(おにかげ)という暴れ馬に乗せて殺そうとしたが、小栗は上手く乗りこなし失敗した。そこで毒を入れた酒を飲ませて殺そうとした。照手姫はこの計画を小栗に告げたが、再三勧められ密謀に引っかかって落命、横山は小栗の財宝を奪い、その死体を上野原に捨てた。

ある夜、遊行14代上人の大空上人に、閻魔大王から小栗を助けよという夢のお告げがあった。上野原に行ってみると、土の中から餓鬼の姿となった小栗が這い出して来た。上人は土車(イザリ車、差別語かもしれないが代替語?)に小栗を乗せ、熊野の湯の峰温泉へ湯治に送る。
一方、照手姫は小栗が毒殺されるのを見て逃げ出したが、追っ手に捕まり、武蔵金沢の侍従川に棄てられる。六浦の漁師に助けられたが、嫉妬深い漁師の妻に松葉でいぶされ、挙句の果てに人買いに売られ美濃国、青墓の宿場で働く。照手姫は小栗とも知らずに小栗の車を引いた。
その後、元気になった小栗は横山を処刑し、照手姫を妻に迎えた。小栗は報恩のために遊行寺に閻魔堂を建てた。小栗の死後、照手姫は剃髪して長生尼と名乗り小栗と毒殺された家臣の菩提を弔った。遊行寺の中にある長生院縁起と伝えられる。

これが、大筋であるが、絵にしたものが、下の示す長生院
「小栗判官一代記略図」である。昔は人が集まれば長生院で絵解きをしてくれたそうである。
花応院にも「小栗判官縁起絵」があるが、長生院の縁起は満重を主人公、照手を遊女とするのに対し、花応院のものは、満重の子、小次郎を主人公、照手を横山の娘としている。

今回のウォークで訪ねるスポットを紹介しよう。
@ 道場ヶ谷 小栗塚市民の家付近、時宗本山遊行寺を開いた呑海上人が1323年にここに遊行道場を開いたと伝えられる所、遊行14代大空上人の頃までここに道場があった。時宗は当初、寺を持たなかった。
A 小栗塚の跡 横山大膳に毒殺された小栗判官が土葬された場所と伝えられる。県道の拡幅のために破壊されその跡に碑だけが残っている。
B 土震塚
(すなふるいづか)
小栗塚の反対側にある。小栗が蘇生し、土を震ったと伝えられる所、榊の古木が残っているだけ。
C 閻魔堂跡 小栗判官之墓と刻まれた角型石塔がある。天保11年(1840)、火災で焼失し、本堂にあった閻魔大王像(市指定文化財)に花応院へ移された。
D 花応院 当地名主飯田家所蔵の小栗判官縁起絵、地獄変相十王図絵を保管、毎年、1月と8月の16日には小栗判官縁起絵、十王図絵の絵解きがある。
E 鬼鹿毛の森 ウィートリッヒの森の名で知られるが、鬼鹿毛が育った所と伝えられる。
F 長生院 遊行寺内にある。小栗判官の死後、照手姫は長生院と名のり、小栗主従の菩提を弔い生涯を終える。境内には小栗判官と十勇士、照手姫、それに鬼鹿毛の墓がある。
 小栗判官と十勇士、照手姫、鬼鹿毛の墓
参考文献:平野雅道 藤沢の「小栗判官・照手姫伝説」長生院の縁起をめぐって