紀行

健康ご利益めぐり-18 中央区


平野 武宏

中央区の健康ご利益です。まずはすっかり新しく生まれ変わった東京駅八重洲口からスタートです。最寄駅は代表例です。寄り道の価格は訪問時のものです。

[中央区]

[脚気防止・延命長寿]西河岸地蔵寺教会 ほおずき地蔵 

                   八重洲1-2-5 最寄駅 東京駅


呉服橋手前りそな銀行の裏にありました。享保3年(1718年)行基菩薩の作とされる日限地蔵(延命地蔵)を安置したのが始まりとされています。
寺院なのに教会という理由は不明。
周囲をビルに囲まれ窮屈そうな感じ。
脚気防止のまじないにほおずきを授けていたとのことです。


もう一つの説明板によると「大正4年(1915年)本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演の折、当時21歳の無名俳優だった花柳章太郎お千姫の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵寺(昭和24年に日本橋西河岸地蔵堂教会となる)に祈願しました。
章太郎はこの役に起用され好演し、これが出世役となりました。章太郎が昭和13年(1938年)明治座上演の際に奉納した「お千姫の図額」が所蔵されています」と記載。

[延命長寿]大安楽寺 延命地蔵 日本橋小伝馬町3-5
                    最寄駅 日比谷線 小伝馬町駅

今は十思公園となっていますが、延宝5年(1677年)から明治8年(1875年)市ヶ谷刑務所が出来るまで約200年続いた、小伝馬牢屋敷でした。牢屋敷で死罪になった人物には安政の大獄で処刑された吉田松陰がいて公園内には終焉の地の碑があります。墓は明治に入り、伊藤博文たちにより松陰神社に再埋葬されています。
(寅さん歩その7 江戸五色不動 目青不動 参照)
説明板によると「牢屋敷における幾万余の霊を弔うため、明治8年高野山から弘法大師を勧請、本尊にしました。刑場跡には「延命地蔵」(写真下右)を建立」と記載。


[延命長寿]笠間稲荷神社 日本橋浜町2-11-6 
                     最寄駅 新宿線 浜町駅 

久松町交差点近くにあり、江戸時代中期に常陸(今の茨城県)笠間稲荷の分霊を奉斎しました。昭和51年(1976年)に日本橋七福神の寿老神が祀られ、延命長命寿のご利益ありとのこと。
  

[首から上]大観音寺 日本橋人形町1-18-9 
                      
最寄駅 日比谷線 人形町駅

寺のしおりによると「当観音は鉄造聖観世音菩薩の御首像で源頼朝が鎌倉に幕府を開いた際、二位局北条政子が京都清水観音に帰依せるにより、鎌倉の地に「新清水寺」を創建し、その本尊として奉祀されました。正嘉2年(1258年)同寺は火災にあいましたが、本尊は寺僧により御首のみ難を井中にさけられたり。
江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され、鉄観音堂が建立されました。明治初年の神仏分離令で由比ヶ浜に棄てられる所、人形町の住人により、江戸に運ばれ、明治9年(1876年)大観音寺に安置され、頭から上の病にご利益があると信仰をあつめました。関東大震災も東京大空襲も難を逃れました。
平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災で当寺は被害がなく縁日の17日にご開帳(開扉)をしたところ、ご本尊、真東を向かれていました。(人の手では動かせない鉄製の仏頭のみが25度右に向きを変えていた)これは平成の不思議顕現として、その後、縁日に11日も加え、ご開帳されています」と記載。

[足・身体健全] 大観音寺 護法韋駄天尊

狭い境内に3つある末舎のひとつ。韋駄天が俊足なのは仏舎利を盗んだ鬼神を追いかけ取り戻したことに由来。室町時代の能に取り入れられ、謡曲「舎利」の流行により、足の速い者の常套句となりました。
警備会社の方はもとより東京マラソン開催以来、ランナーのお参りが急増しアスリートのメッカとなっている。
(お寺のしおりより)
      

[寄り道] 玉ひで 親子丼 日本橋人形町1-17-10

今回は時間が合わず、寄れませんでしたが、人形町に来たら一度は食べたい味です。
寅さん歩その4東京発祥之地めぐり(グルメ編1)を参照ください。    

[無病息災]小網神社 日本橋小網町16-23 最寄駅 日比谷線 人形町駅

説明板によると「小網山万福寺を別当寺として、室町時代中期、文正元年(1466年)当地に祀られた稲荷社に起源すると言います。
明治時代初めの神仏分離令により、小網神社と称し現在地を社地と定めた。小網町および人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている」と記載。
11月28日には新米で作ったどぶろくを神前にあげ、そのお下がりを参拝者にふるまう「どぶろく祭り」があるとのこと。しっかりと手帳にメモした寅次郎でした。
日本橋七福神の福禄寿と辨財天が祀られていますが、明治元年(1868年)の神仏分離令で廃寺となった寺から引き取ったそうです。特に道教の化身の福禄寿を公式に祀ったのは戦後だそうです。

[眼]智泉院  日本橋茅場町1-5-13 最寄駅 日比谷線 茅場町駅

説明板によると「寛永12年(1635年)創建された上野寛永寺の末寺に当たる天台宗の寺院です。江戸時代には病を治すご利益があると薬師信仰が盛んで、この智泉院も「茅場薬師」と呼ばれ江戸庶民の信仰を集めました」と記載。前は茅場町の日枝神社です。

[首から上]高尾稲荷神社 日本橋箱崎町10-7 
                    最寄駅 半蔵門線 水天宮駅

説明板によると「万冶2年(1659年)江戸の花街新吉原の遊女二代目高尾太夫(19歳)は容姿華麗、和歌・俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ比類のない全盛を誇ったと言われる。仙台藩伊達綱宗候に寵愛され大金を積んで身請けされましたが、彼女には意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに侯の怒りを買って、現在の中川あたりで楼船上にて吊るし切りされ、川に捨てられました。
その遺体は数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂流、当時そこに庵を構え、居合わせた僧が引き揚げて、手厚く葬ったといわれる。高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに高尾大明神を祀り高尾稲荷と称したのが当社の起縁です。全国でも非常に珍しく実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として安置してあります。
頭にかかわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪など)にご神徳があり。この社の櫛を一枚借り受け朝夕に高尾大明神に祈り、懸願成就ののち他に櫛一枚を添えて奉納する習わしが昔から伝わっています」と記載。

[無病息災]波除稲荷(なみよけ いなり) 築地6-20-37 
                     最寄駅 日比谷線 築地駅

築地市場の一角に鎮座(写真左)説明板によると「創建は万治年間(1658~1661年)と伝えられています。築地一帯の埋立の時に波浪により工事が難航を極めた際に海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が収まり工事が無事完了したと言われています。
尊称はこれに由来し、江戸時代以来人々に信仰されています。正面の拝殿、右手の獅子殿には「厄払い天井大獅子頭」(写真下右)左手の弁財天社には「鉄漿獅子頭」(写真下左)が奉納されている」と記載。

    

境内には築地という土地柄から、すし塚、海老塚、鮟鱇塚、活魚塚、玉子塚、魚がしの碑などの石碑もあります。
長靴をはいた魚河岸で働く若者が仕事の合間に参拝している姿を見かけます。
築地については、寅さん歩その8-5 東京発祥之地めぐり(学問・文化編1)を参照ください。

[寄り道] つきじ 丸武 玉子焼

築地市場には玉子焼き店が他にもありますが、寅次郎は最初に買ったこの店の味が気に入り、築地のお土産にしている玉子焼(620円)です。
   

次回は世田谷区の健康ご利益です。

平野 寅次郎 拝