紀行

健康ご利益めぐり-20 千代田区


平野 武宏

千代田区の健康ご利益です。江戸城があった区なので、それにかかわる健康ご利益が多いです。
最寄駅は代表例です。寄り道の価格は訪問時のものです。

[皮膚病]三崎稲荷神社 三崎町2-9-12 最寄駅 JR水道橋駅

駅東口の日本歯科大学病院の隣にあります。金毘羅神社を合祀しているため三崎神社とも通称されている。
建久年間(1190~99年)三崎村の鎮守として創建。江戸時代には「神応湯」という疱瘡の薬を参拝者に分け与え、皮膚病快癒にご利益があったという。古くは神田川の岸にあったが、明治38年(1905年)甲武鉄道(現JR)が万世橋まで延長された際に現在地に移った。現在は薬の頒布は行われていないが「御砂守り」という道中安全のお守りがある。諸大名が参勤交代の際に清めを行った故事に由来とのこと。通勤時にはサラリーマンが頭を下げて通り過ぎて行きました。

[皮膚病]太田姫稲荷神社  神田駿河台1-2  
                    最寄駅 JR御茶ノ水駅

聖橋口から御茶ノ水仲通りを下り、三井住友海上本社の先の右側にあります。   
境内に掲げられた縁起によ ると「古社名を一口稲荷神社(いもあらいじんじゃ)と言い、小野篁(おののたかむら)が承和6年(839年)初めに伯耆の国(今の島根県)名和港を出港、間もなく海が大そう荒れ狂い身の危険を感じたため、篁は正装し.船の舳に座り観音経を唱えていると、白髪の老翁が波上に現れ「荒波から命は守ってやるが、疱瘡を患えば一命が危ない。われは大田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかることはないであろう」と告げ、波間に姿を消した。
そのお告げを護り、自ら翁の像を刻み護持し、後に山城国(今の兵庫県)の南にある一口の里に神社を祝い祀った。
                   
江戸の開祖として知られる太田道灌の最愛の姫君が重い疱瘡にかかり絶望の中、人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願、使者は祈祷の一枝と幣を授かり帰ると重篤の病が癒えた、道灌は崇敬の念、篤く城内本丸に一社建立し姫と深く敬拝した。あるときこの城の鬼門を守るべしとの神託があり、長禄元年(1457年)鬼門に移して大田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。
慶長8年(1603年)徳川家康が江戸城へ入られた後、慶長11年(1606年)の江戸城大改築の際、城内より西丸鬼門に当たる神田駿河台東側に移された。以降代々徳川家が修理造営を行ったと伝えられる。
現在地は昭和6年(1931年)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため代替地として指定され、一切の建築物をそのまま移設している」と記載。

 
[こぼれ話]ニコライ堂  神田駿河台4-1-3 最寄駅 御茶ノ水駅

太田姫神社に行く途中、左側にあり。
明治17年(1884年)から7年の歳月をかけて建設された日本ハリスト正教会東京復活大聖堂。ビザンチン様式で建てられた教会としては日本最古のもので半球形のドームや屋根を持つ。
ニコライ堂の名はこの教会の基礎を築いたカサトキン・ニコライに由来する。内部の見学は13時からで300円です。
お茶の水駅脇の聖橋の名はこの聖堂と湯島聖堂を結ぶことから名づけられたと知りました。

[美人]神田神社(神田明神) 外神田2-16-2  
                        最寄駅 JR御茶ノ水駅

 随 神 門 拝 殿

天平2年(730年)武蔵国の柴崎村(現大手町1丁目付近)の将門の首塚の隣に創建されたと伝わる古社。江戸城拡張で駿河台へ、元和2年(1616年)現在地へ。
正式名称は神田神社。江戸城から東北の方向にあり、この場所は江戸城の鬼門封じという江戸総鎮守で祭神は平将門だった。
明治維新後、朝敵として将門は外され大己貴命(大国主命おおなむらのみこと)、少彦名命(すくなひこのみこと)の二祭神となったが、氏子の運動で昭和59年(1984年)三祭神に復活した。江戸三大まつりの神田祭では華麗な山車と神輿が江戸城に入り将軍をはじめ多くの女中が熱狂した。
近頃は「美しくなれる神様」と女性の間で話題で、いつまでも美しくありますようにウエスト部分がくびれたお守り「美守」(800円)が人気だそうです。

    
[病気平癒・健康増進]神田神社 少彦名命(えびす様)ご尊像

隋神門を入りすぐ左側にあります。
説明板によると「神田明神の二の宮・少彦名命はえびす様として親しまれ,篤い崇敬をお受けになられております。えびす様は七福神の商売繁昌の神様として、また魚群を岸に追い込み大漁をもたらすイルカやクジラにも例えられる海の幸を象徴する神様です。
少彦名命は海のかなた「常世の国」から来られ小さなお姿の神様ですが、大きなだいこく様(一の宮・大己貴命)と力を合わせ日の国をお作りになり、国土開発・事業繁栄の神様として仰がれています。又医薬の教えを全国各地に広めたことから病気平癒・健康増進の祖神とも言われています」と記載。
                

[開運長寿]神田神社 合祀殿内 諏訪神社

拝殿の裏に合祀殿があり、説明板の中に健康ご利益を見つけました。
開運長寿の諏訪神社も合祀されています。
江戸時代に勧請された七つの神々は関東大震災・戦災により社殿を焼失し、神田神社の本殿を仮御座としていましたが、平成24年合祀殿を新たに造営し祀られました。

[疫病退散]神田神社 小舟町八雲神社


説明板によると「この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社とともにこの地に遷座された。小舟町お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と言われた。明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散のため、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。当時の天王祭は氏子180ヶ町を巡り、その里程は13里に及び13里天王とも言われた。近年では八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋が建てられ華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている」と記載。

[こぼれ話]将門首塚の碑 大手町1-2-1最寄駅 三田線 大手町駅

大手町の三井物産ビル東側にあります。(地下鉄C5出口)説明板によると「昔この辺りを柴崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがありました。
現在塚跡にある石塔婆は徳冶2年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもので焼失のたびに復刻し現在に至っている。
明治2年(1869年)より第二次世界大戦時までこの地に大蔵省が設置され、大蔵大臣 阪谷芳郎は遺跡保存碑を建立した」と記載。
(当時大蔵省では病人やけが人が続いたり、第二次大戦後、GHQが整地しようとブルドーザーを動かしたところ事故が発生。将門の祟りは真実味を増し、塚が保存されることになったそうです)別の説明では平将門は桓武天皇の六代の皇胤。平安中期に下総国に兵を起こし、坂東八か国を平定し、「新皇」と称し、民衆の支持を得たが、藤原秀郷の軍に敗れてしまい、首級は京に運ばれ都大路にさらされますが、3日後に白光を放って東方に飛び去り落ちたという。当時の神田明神から百歩と離れていなかったそうで、村人たちはそこに塚を築き、将門の首級を埋めた。その後将門の怨霊は種々の祟りをなし天変地異が続いた。荒廃した首塚に石婆塔を建て供養し、神田明神と合祀すると祟りは鎮まり、この地の守護神となったという。
首は飛んできたのではなく、将門に所縁の人物がこっそり持ち帰って埋めたと書く本もあり。
 
    
延命長寿]日枝神社 永田町2-10-5 最寄駅  千代田線 赤坂駅

神門 本殿

文明10年(1487年)太田道灌が江戸守り神として創建。以来、徳川産土神を祀り、江戸の総氏神、成長発展、産業繁栄の守護神、山王さんとの愛称で親しまれている。
江戸城内紅葉山に鎮座、後に城外、元山王(今の国立劇場の辺り)に移り、明暦3年(1657年)の大火で焼失、現在地に祀られました。
お使いはで、社殿前には狛犬ならぬ神猿が控えています。夫婦の猿で夫婦円満・殖産繁栄の神で、特に女猿(写真下左)は安産・子育てに霊感ありと評判。


小高い丘にあるため上りエスカレーターがあり。隔年6月中旬に開催の山王祭りは神田祭、深川祭と江戸三大祭りの筆頭。
さらに日本三大祭り(京都祇園祭、大阪天神祭)として歴史上盛大な祭りです。
江戸時代は江戸城内に神輿と山車の入御が許可され三代将軍家光以来の歴代集軍の上覧拝礼の「天下祭」として盛大を極めた。
写真右は山王まつり附祭の神幸祭の山車として境内に陳列してありました。

[病気平癒]靖国神社 九段北3-1-1最寄駅 半蔵門線 九段下駅


明治2年(1869年)新政府により、国家に尽くした人々の霊を供養する東京招魂社として創建。明治12年(1879年)戦没者のみを祀る靖国神社になった。
約250万人の霊が祀られている。戦後は憲法20条、政教分離の原則で国家としての祭祀は行われないが、近年は政治家の公式参拝が国際問題化している。写真上左は秋の参道で大村益次郎銅像があります。右は参道奥にある拝殿です一般の人の参拝はここまでです。
ここにも一人で祈る若い女性の後ろ姿がありました。

[こぼれ話] ゴジラ像 有楽町1-2-2 日比谷シャンテ前
                       最寄駅 三田線 日比谷駅

日比谷映画街に広場に立つゴジラ像。昭和59年(1984年)に建造されました。
前にある銘板には
このゴジラが最後の一匹だとは思えない 
    古生物学 山根恭平博士
        1954年11月3日
 と記載。

怪獣ゴジラは昭和29年(1954年)スクリーンに登場。この年の3月1日焼津のマグロはえ縄漁船第五福竜丸がビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験による「死の灰」を浴びる事件があった。
この機に原水爆禁止の機運が高まった世相をにらみながら企画された水爆で目覚めた大怪獣が暴れまわるストーリーだ。ゴジラは1954版年では品川沖から八ツ山橋に上陸、銀座・浅草へ。1984年版では晴海から上陸し銀座・新宿へ。
30年後の大きさは高層ビルで姿が隠れないように50→80mと30mアップしている。「ゴジラ」はクジラとゴリラの「グジラ」からヒントを得て命名したとか。

                 

次回は渋谷区の健康ご利益です。

平野 寅次郎 拝