紀行

健康ご利益めぐり-21 渋谷区


平野 武宏

渋谷区の健康ご利益です。渋谷は寅次郎、通勤で通ったなじみのある地ですが、健康ご利益はすべて初めて訪れる場所でした。
最寄駅は代表例です。寄り道の価格は訪問時のものです。

 [イボ取り] 東福寺 塩地蔵(イボ取り地蔵) 渋谷3-5-8
                         最寄駅 渋谷駅

駅東口から歩道橋を上り、昔お世話になった(仕事でですぞ!)渋谷警察署先の道を左折するとある金王八幡宮に隣接する天台宗の寺で渋谷区の最古の寺(写真下右)です。明治の神仏分離までは金王八幡宮の別当寺とのこと。
本堂の左側に二つのお堂(写真下左)がありました。
説明板によると「宇田川地蔵でもともと宇田川橋のたもとにあった言われます。街の繁栄に伴って、転々と移され、平成25年(2013年)に宇田川町の地から東福寺に遷座、新しいお堂(左側)が完成しました。(扉を開けるとお地蔵様が安置)


下の写真左のお堂のお地蔵様は昭和37年(1962年)の造立、右のお堂のお地蔵様は元禄元年(1688年)に造立され、戦災の影響を受けています」と記載。下写真で並ぶ、右のお堂のお地蔵様には塩が供えられ、こちらが塩地蔵と思われます。
長い間、大勢の人が塩をふりかけたので、石の柔らかい部分が溶解してこのような姿になったようで、イボ取り地蔵とも言われ、供えた塩をもらってイボの上にこすればイボが取れると言われているとのこと。

 左のお堂のお地蔵様 右のお堂の塩地蔵

[こぼれ話] 金王八幡宮 今昔物語 渋谷3-5-12


北条氏に滅ぼされた渋谷氏(渋谷の地名ともなった)の居館があった地で渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092年)創建。子供の授かりを祈願し、渋谷金王丸常光(のちの土佐坊昌俊)を授かった金王丸御影堂(写真上左)や徳川家光の守役の青山忠俊が乳母の春日局と共に家光の三代将軍就任を祈願、決定した時、造営を開始した江戸建築様式を残す現在の社殿(写真上右)、源頼朝が金王丸を偲んで植えた金王桜(一重と八重が混じって咲く珍しい桜)などが金王八幡宮の昔のお話。

今のお話はオーストリア人の神主がいると話題になっています。寅次郎も東京に移った最初の年初ウォークでこの青い目の神主さんから健康ご利益の御祓いを受けました。
 [病気平癒] 御嶽神社  渋谷1-12-6  最寄駅 渋谷駅

一時期、オフィスにしていたシオノギビル(すぐ前は東急文化会館の跡地に建つ渋谷ヒカリエ)の脇から宮益坂を横断、渋谷郵便局の下の石段を上った高台にあります。
渋谷一帯の鎮守様として信仰され、明治3年(1870年)明治天皇が駒場野の練兵天覧行幸の際に往復とも社殿をお休み処にした由緒ある地です。


宮前坂はこの宮の前の坂に由来とのこと。社殿の前の狛犬は日本オオカミ
延宝年間(1673~1681年)の作と言われます。神のお使いで畑の作物を獣に荒らされないための守り神とのこと。写真を撮ろうとしたら、前にお参りしている若者が祈ったまま長い間動かず。何をお願いしていたのでしょうか・・・

 [厄病退散] 御嶽神社 あぶり不動

若者の祈りを待っている間に社殿手前左側にある不動堂に気付きました。
説明板によると「当不動尊は延宝9年(1681年)建立され、古くからあぶり不動と称され苦しみや厄病などを香煙であぶりだすと伝えられ、近隣近在に知られております。
また商人衆、金融関係の方々がお札をあぶり倍々に富を殖やすとも言われ、隠れた人気を呼んでいます。
当初、渋谷新町の町名が元禄13年(1700年)に宮益町と改称されたのも鎮守御嶽神社より起きたと言われています」と記載。
「近くで働いていたのに早くこの説明板を読んでいれば」と悔やむ寅次郎でした。

[頭痛・夏バテ]妙圓寺 神宮前3-8-9  
                最寄駅 銀座線 外苑前駅


青山通りから外苑西通りを左折、原宿団地北を左折すると、すぐの電柱に案内表示があります。日蓮宗のお寺です(写真下左)境内には原宿の地名の起源となった鎌倉街道宿場町 原宿の碑があります。
江戸時代は寺子屋教育が行われ、明治に入り穏原小学校となったとのこと。
頭痛、夏バテにご利益があり、夏の丑の日には「ほうろく灸」で知られているとのこと。

      
[病気平癒] 妙圓寺 浄行菩薩


本堂の手前右側には水とたわしが置いてある浄行菩薩がありました。
原宿発祥の碑」は菩薩の手前にあります。

 [こぼれ話] 長安寺 満米地蔵  神宮前3-8-4

妙圓寺の隣の長安寺には珍しいお地蔵様がありました。
浄土宗の寺で、縁起には「大和(奈良)の矢田寺の僧 満米が冥土に至り閻魔大王に教えを授け、布施として米の満ちた小箱を得た。この米はとるに従い、充満し、尽きるを知らず、かつ冥土において地蔵菩薩が衆生に代わり苦を受く慈悲相に感じ、この像を刻む」とあり。世に満米地蔵と呼ばれ、江戸時代には有名で、この菩薩を信じれば、家中、米が尽きことがないと言われたそうです。実際の木造像は本堂にあるとのこと。米が尽きないように、しっかりとお参りした寅次郎でした。


[歯痛・婦人病]お万榎稲荷神社  千駄ヶ谷2-29
                      最寄駅 JR千駄ヶ谷駅

外苑西通りの千寿院交差点角に徳川家康の側室お万の方の発願で創建した千寿院があります。(写真下左)お万榎神社は少し離れていますが、かっては千寿院の境内だった所で空洞のある榎の大木があり、底に祀られた稲荷(写真下右)なのでこの名があるとのこと。その後、お万の方が信仰したのでお万稲荷、お万榎と呼ばれ、信仰されました。お万の方は紀州徳川家の祖 頼信、水戸徳川家の祖 頼房の生母です。


[こぼれ話] 鳩森八幡稲荷神社 千駄ヶ谷富士
                  千駄ヶ谷1-1-24 最寄駅 千駄ヶ谷駅

お万榎から坂を上ると鳩森八幡稲荷神社です。
渋谷区にも富士山があります。江戸時代、霊峰富士は富士講と呼ばれた人々の信仰の対象でした。でも誰もが行ける場所ではありませんでしたので、富士山から溶岩を運び、各地にミニチュアの富士山を作りました。境内にある千駄ヶ谷富士は往時の姿をよく残している東京23区最古の富士塚です。これに登れば富士山に登ったと同じ事になるそうです。ぜひ一度、6mの富士山に登頂ください。写真上右は境内にある昔風の富士塚の案内板です。
寅次郎は東京23区の富士塚73ケ所をめぐりました。
(寅さん歩その9 富士塚めぐり-1及び-2を参照下さい)

[皮膚病]清岸寺 疱瘡稲荷神社  
                幡ヶ谷2-36-1  最寄駅 京王線 笹塚駅


駅から甲州街道を幡ヶ谷方面に戻り、中野通りに入ると、右手にあります。
本堂(写真上)へ向かう右側に昔は死の病と怖れられていた疱瘡(天然痘)を護る神社
(写真上右)があります。

 [禁酒] 清岸寺 酒呑地蔵

以前は本町にあったが、事情によりここに引越して来たというお地蔵様が本堂右側にあります。
説明板によると「宝永5年(1708年)本村に建てられ、別名を子育て地蔵ともいわれますが、次のようないい伝えがあります。
昔、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者は故あって家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守など一生懸命に働いたといわれています。瀬平の勤勉さに感心した村人は31歳になった正月に彼を招いて御馳走 した所、普段飲まない酒に酔った瀬平は川に落ちて水死してしまいました。
    
瀬平は村人の夢枕に現れてこの村からお酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造って欲しいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵としてお祀りしてきました。
平成22年1月10日に本町5丁目の地蔵橋のたもとから、ここ清岸寺に遷座し、2月19日に開眼供養が行われました。新たなお堂も建立され、安住の地となりました」と記載。
断酒したい人・させたい人がお参りすれば願いがかなうとか。
「お酒の飲み過ぎは病や事故のもと」と肝に銘じながらお参りした寅次郎でした。

[こぼれ話]渋谷駅前の待ち合わせ

渋谷駅前の待ち合わせの定番は昔から忠犬ハチ公((社員下左)前ですが、西口にもう一つある待ち合わせ場所「モヤイ像」をご存知ですか? 
ハチ公前があまりにも混雑するのに対し、ハチ公前から東急百貨店を挟んだ西口にある「モヤイ像」前(写真下右)はそう混雑していません。
有名なイースター島の巨石は「モアイ像」、こちらは東京都新島村で産出されたコーガ石で出来ている「モヤイ像」で新島村から渋谷区に寄贈されました。モヤイ像の少し小さいものはお台場海浜公園にもあります。
下隅にある説明板に「新島村には古くからモヤイと呼ぶ美しい習慣があった。それは島民が力を合わせる時にのみ使われた。いわば共同の意識から生まれた素朴な人々の優しい心根を表すものであった。モヤイは島の歴史とロマンを秘めた言葉なのである。
ここに集う人々よ。ものいわぬモヤイ像はあなた方に何を語りかけるであろうか。願わくば私たちと共にそのかすかなる祖先の「モヤイ」合う連携の心に胸を大きく開かれんことを。昭和55年9月26日 東京都新島村」と記載。
「34年も前からあったのか!ここを通っていたのに気が付かなかった。
モヤイ合う連携の心を忘れないようにしよう!ハチ公口のように早くモヤイ口と呼ばれるように!」と祈った寅次郎でした。


次回は太田区の健康ご利益です。

平野 寅次郎 拝