紀行
健康ご利益めぐり-28 荒川区
平野 武宏 |
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荒川区の健康ご利益です。寅次郎の地元の大塚と同じ都電荒川線が走り、寅次郎のお気に入りの街です。 最寄駅は代表例です。寄り道の価格は訪問時のものです。 [荒川区] [耳]三峰神社 袈裟塚耳無不動 荒川3-22 最寄駅 都電荒川線 荒川区役所前駅 |
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数少ない耳の健康ご利益です。 説明板によると「光三郎(仙光院9世住職光慧)とお絹の情愛物語は袈裟塚耳無不動伝説として今も伝承されている。 |
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伝承によれば、悪い病いで耳が落ち、腰も抜けた光慧(こうえ)は仙光院門前に袈裟塚を作り、不動明王を安置して村内の五穀豊穣と往来安全を祈願したという。宝暦10年(1760年)建立のこの不動尊台座には東叡山領や道しるべの文字が刻まれている。この不動を題材に江戸の戯曲家 山東京殿の三河島御不動記という黄表紙が寛永元年(1789年)に板行された。明治29年(1896年)明治通り北側から三峰神社内に遷された」と記載。 神社右手にある不動明王には願いが叶うと、お椀や湯飲みを奉納する風習があり、多くの茶碗やお椀がご利益の程を示しています。 |
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[寄り道] 光栄軒 チャーハン 三峰神社の前の明治通りの信号を渡ると右側にあります。 写真は普通盛り(ご飯2合半)590円です。さすがの寅次郎も持て余し気味でしたが完食。隣のお兄さんは大盛り(4合)をスマホを見ながら完食。ランチ時には混雑するお店です。 |
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[眼]法界寺 長盛薬師如来 荒川3-51-3 最寄駅 JR三河島駅 |
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明治通りに面してありました。写真右は本堂、左は手前にある薬師如来堂。説明板によると「長保年間(999~1004年)長盛居士開祖と伝わる浄土宗のお寺。本尊の阿弥陀如来には延宝8年(1680年)と記されている。江戸後期~幕末まで将軍の鶴おなりの際のご膳所にあてられた。境内には眼病に効き目があるという長盛薬師(写真左)がある」と記載。 |
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[脚気・皮膚病]宮地稲荷神社(三河島稲荷神社) 荒川3-65-9 最寄駅 JR三河島駅 説明板によると「三河島稲荷ともいう。宮地の地名は当社からおこったものであろうといわれる。 天正7年(1579年)の創建と伝わる。祭神には疱瘡神も合祀。 特に脚気に効き目があるとして参拝する人が多く祈願成就の時には草履を奉納したという。左側にはご神木(樹齢650年)の大欅の切り株のみが残る」と記載。 |
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[こぼれ話] 三河島菜と枝豆 宮地稲荷の前にある説明板によると「三河島菜は結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬菜で江戸時代初期に三河国(愛知県)の百姓が入植して作りはじめたと伝えられています。 三河島菜の特徴は葉の幅が広く、色は黄緑。 現在の白菜の様には結球せずに大株になり、外葉の付け根の部分 が外の方向に張り出し、船の錨に似た姿なので「いかり菜」とも呼ばれ、漬物にして食べていました。 明治初年頃から作付面積が増えていきましたが、間もなく白菜の人気が高まるにつれてとって代わられました。 三河島枝豆は三河島菜と共につくられてきた品種で7月中ごろに収穫できる枝豆で枝数が多くさやの表面についている毛は白色、葉は濃い緑でひとさやに3粒の豆がつく優れた特性をもっています。この地域の土質は荒川下流の沖積土で枝豆の栽培に適していました。しかし当地の宅地化が進んだため農地の消滅と共に産地は東京農業の歴史に名をとどめるだけになりました」と記載。 |
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[こぼれ話] 三河島観音 浄正寺 荒川3-53-1 最寄駅 JR 三河島駅 宮地稲荷へ行く途中で見つけました。 文亀3年(1503年)開祖と伝わる浄土宗の名刹。本堂(写真右)の左手前には昭和37年(1962年)の国電三河島事故の惨事を慰霊する三河島観音(写真左)がありました。 三河島事故とは昭和37年(1962年)5月3日21時37分国鉄常磐線三河島駅構内で発生した列車多重(3台)衝突事故で死者160人、負傷者296人の大事故。原因は信号無視の人災と言われている。 後日談として国鉄は保有していたプロ野球球団の国鉄スワローズをフジサンケイグループに売却、事故のマイナスイメージとして地名の三河島町が消滅したとのこと。駅名は残っています。 |
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[歯痛] 山王清兵衛(日枝神社) 南千住7-23-18 最寄駅 都電荒川線 三ノ輪橋駅 |
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千住大橋の手前を右折し、住所で見つけました。名前のわりには荒れ果てた感じの神社です。写真上左は日枝神社。 説明板によると「日枝神社は江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和5年(1316年)に建てられたと伝える。 この社の入口にあたる旧砂尾堤土手端には歯神清兵衛を祀った小祠(写真上右)がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねて、この地で切腹し、俗に山王清兵衛と呼ばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば錨を加えた女性の絵馬を奉納する慣わしで千住の歯神として有名であった」と記載。 |
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[こぼれ話]東京スタジアムの想い出 南千住6-45-5にある 荒川総合スポーツセンターは東京スタジアム(東京球場)跡地で大毎オリオンズ(後の東京、ロッテ)の本拠地でした。昭和37年(1962年)オーナー 永田雅一は観客の側に立った球場との発想の画期的なプロ野球の球場を南千住に作りました。昭和45年(1970年)永田は悲願のリーグ優勝を果たし、ここで胴上げされ、宙に舞いました。 同じ昭和40年代で寅次郎もこの球場が想い出の地です。当時は会社でも草野球が盛んで、取引先との試合も行われていました。資材部チームに所属の寅次郎、対戦相手の大手取引先が手配した野球場が東京スタジアムでした。 仲間は「相手が手加減したのだ」と言いますが、甘いボールを見逃さず、ランニングホームランを打ちました。でも次の回、センターの守備でトンネルしてランニングホームランのお返しを忘れなかった律儀な寅次郎でした。ボールを追いかけ、センターの一番深いフェンスまでは遠かった記憶が忘れられません。想い出の球場は経営難でその後閉鎖しました。 |
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[こぼれ話] 円通寺 上野の黒門 南千住1-59-1 勝海舟と西郷隆盛で決まった江戸城無血開城に反対し、上野の山で戦い、敗れた彰義隊の遺体は賊軍として放置されていました。円通寺住職などがこの地に運び葬りました。銃痕の残る黒門(写真)も一緒にこの地に移されました。 |
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[寄り道] ジョイフル三ノ輪商店街 |
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都電荒川線終点の三ノ輪橋駅前から、次の荒川一中駅まで続く元気な商店街で食事できるお店もありますが、今回は光栄軒チャーハンで満腹のため、立ち寄れない寅次郎でした。 |
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平野 寅次郎 拝 | |
次回は中野区の健康ご利益です。 |
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