八柳修之 |
藤沢橋の交差点から県道30号線を鵠沼方面へ歩いて行くと南仲通り交差点の少し手前、左手の空き地(藤沢909)の裏に甕を重ねた土手が露出している。 甕の大きさは直径約30cm、長さ60cm位である。ネットで調べて見ると、この甕は醤油を貯蔵するものであることが判った。昔、ここで醤油屋を営んだ人が廃業となって土留めに甕を積み重ねたのであろうか。 |
この辺りに醤油屋があったか、「大藤澤復興市街図」で調べてみた。距離は離れるが、藤沢橋の袂、現在、ガソリンスタンドとなっている所に「東海醸造株式会社」があったことが示されている。 調べてみると東海醸造は、1918年(大正)8年7月、東京の財界の中堅クラスの人々と藤沢町、川口村(片瀬)の有力者たちが協力し設立した資本金100万円の会社であった。 同社は帝国特許醤油合資会社の持つ特許権を買収し、県下において特許醤油の醸造・販売を行った。特許醤油とは、甘藷を主原料とし米糠、ふすま、大豆等を原料とし醸造するもので、製法も簡単で特別な設備を必要とせず、コストも在来の醤油の半分で済むというものであった。 しかし、開業後、業績は振るわず、第一次大戦後の好景気が去り、諸物価が急落し始めると、在来製法による醤油への嗜好が強まって行った。このため在来製法へ転換したが、特許権の取得に多額な資金を投じた事が経営の禍根となり、加えて大正12年の関東大震災により工場施設が全壊し、取引銀行の関東銀行も破たんした。 藤沢909で見た甕は、確かに醤油甕ではあるが、これが東海醸造の甕であるかは分からない。そして、ここになぜ甕が積まれたのかも依然として判らない。 出典:「藤沢市史 第三巻 追記:
その後の調べで東海醸造の事が分かりましたので追加いたします。
「藤沢郷土史」 加藤徳右衛門著 昭和8年初版 発行 図書刊行会の中に
「平野熊蔵氏本町の素封家 横〇銘酒の醸造元平野藤左衛門の弟、大鋸に進出して醤油の醸造を開始す。功成り名を遂げて先代病没後、二代目熊蔵を襲名し醤油の醸造を工場は勿論全ての権利を東海醸造会社に譲渡し現在の場所に酒類販売業として更生し其雄姿を藤沢橋畔に示すに至りたり」(512頁)〇の箇所、活字が飛んで判読不可能。
とあり、東海醸造の設立者平野熊蔵は、東坂戸の酒造蔵元平野屋屋号牧野屋、(平野武宏前FWA会長本家)の分家であった。 |