紀行
江戸・東京の祭-32 | |
(江戸らしい祭-15) |
平野 武宏 |
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[大岡まつり]豊川稲荷東京別院 最寄駅 丸の内線 赤坂見附駅 豊川稲荷と言えば愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院 妙巌寺ですが、東京別院は江戸時代の名奉行 大岡越前忠相が生涯の守護神として豊川稲荷からご本尊「だきにしん天」を勧請し、屋敷稲荷として江戸の自邸に祀り、豊川稲荷の直轄別院(飛地)となったとのこと。 屋敷の移転と共に赤坂御用地(東宮御所他)の隣の現在地へ。大岡越前忠相とは南町奉行として数々の「大岡裁き」を行ったと言われるお方ですが、その多くがフィクションとか、中国の物語などにその原案が見られるそうです。9月22日は「大岡まつり 大岡公報恩祭」と聞き、出向きました。豊川稲荷東京別院は大祭で幟と赤ちょうちんに囲まれています。 |
山門を入ると大きな狐に守られた本殿(下写真左)、その隣には開祖の位牌のある大岡越前守忠相公御廟(下写真右)の扉が開かれ、お供え物がありました。 本殿からは法要の読経が聞こえて来ました。大岡家の墓所は代々の領地の神奈川県茅ケ崎市堤の浄見寺にあり、5月2日~3日に「大岡越前祭」が行われています。FWAの例会でもよく訪れます。 |
境内には茶店も並び、「豊川稲荷のお稲荷さん」が寅次郎のお気に入りです。 |
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[こぼれ話]南町奉行所跡 JR有楽町駅中央口を出て、有楽町地下広場入口の後側(左手には交通会館があり)に標識があります。 標識には「江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行と共に徳川幕府のひとつでした。その職掌は江戸府内の行政・司法・警察などの多方面におよび定員二名で南北奉行に分かれ月番で交代に執務していました。大岡越前忠相は享保2年(1717年)から元文元年(1736年)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。南町奉行所は宝永4年(1707年)に常盤門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は有楽町駅および東側一帯(有楽町マリオン側)にあたり、平成17年(2005年)の発掘調査では奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しています。再開発事業では石組下水講の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています」と記載。 名奉行 大岡越前忠相は裁判官としてよりも、行政官としての実績が大きいようで、江戸の町の火災予防策の実施や日本の社会福祉史上特筆の小石川養生所の設置や物価安定の貨幣改鋳などを行っています。 |
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[こぼれ話] 北町奉行所跡 こちらはJR東京駅八重洲北口トラストタワーN館(本館の先)脇の小路と隣のビルの間のわかりにくい場所にあります。 江戸城外堀の石垣の先に標識があります。標識には「この地域は江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806年)から幕末まで北町奉行が置かれていました。 有楽町駅前にあった南町奉行所とここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。 名奉行遠山の金さんとして有名な遠山左衛門尉景元は天保11年(1840年)から14年(1843年)まで当所で執務をしていました。 平成12年(2000年)からの発掘調査で北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境等の遺構が発見されました。ここに復元した石組の溝はここから西方約30mの地点で発見された、屋敷北東角の道路との境を巡る下水溝の一部です。 この遺構は本来3~4段の石積みであったと思われますが、発見された時は最下段を残すのみでした。溝の角石が切り取ってあるのは邪鬼が進入する鬼門である丑寅の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされています」と記載。 遠山の金さんは実在の人物ですが、トレードマークの桜吹雪の刺青は謎!?当時、刺青は犯罪者の腕に黒く墨を入れるもので、桜吹雪や唐獅子牡丹のようなものは彫物と呼んで区別していたとのこと。彫物は遠山の金さんが南町奉行だった天保13年(1842年)に禁止令が出ていますので、若い頃に彫物をしていたとしても人前では見せないはずだとの声。 名奉行とうたわれるきっかけは「天保の改革」で老中 水野忠邦が倹約緊縮の引き締め策として「初物を食べる・絹の着用・娯楽類の禁止」など庶民の楽しみの大半の禁止に真っ向から反対、寄席や浄瑠璃は廃止を免れ、床見世屋台や露天商)も存続が許されたことによるそうです。渡世人として露天で商売している「映画の寅さんの大恩人」ですね。 |
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次回は江戸らしい祭-16です。 平野 寅次郎 拝 |