紀行




江戸・東京の祭-45
(花の祭-9)
平野 武宏

 [伊豆大島椿まつり]

伊豆大島は東京都大島町です。3月12日~13日東京都ウオーキング協会の例会「大島椿まつりウォーキング」に参加しました。久しぶりの海外(海の外)ウォークです。伊豆大島を歩くのは2回目ですが、第1回は2日目に波が荒く、島の周囲を歩けず、温泉に入り、帰ってきた思い出があります。2016年の椿まつりは1月31日~3月21日開催で、祭は終わりに近づき、椿の咲き状況が心配でしたが、椿は残っていました。


夜の東京港竹芝桟橋から22時の出航は別れのテープこそありませんが、情緒たっぷりの夜景に送られました。写真下右はレインボーブリッジ、橋下をくぐり、横浜港を経由、伊豆大島へ向かいます。


3月11日なので写真下左の東京タワーも大震災5年目の追悼を示すネオンの色(いつもはオレンジ色)、右はレインボーブリッジです。


 写真下左は横浜ベイブリッジ、右は横浜港 みなとみらいの夜景です。


 写真下左は船中泊の大型客船「さるびあ丸」、6時 岡田港に到着。
 右は大島温泉ホテルから見た三原山が雪化粧でお出迎えです。


 ホテルで朝食・朝風呂後、あじさいレインボーラインを歩き、都立大島公園へ。


都立大島公園内の「椿園」は園芸品種約1,000種 3,200本、ヤブツバキ(自生種)約5,000本を有する日本最大規模の椿園です。 



ナンシー・レーガン  レッド・クリスタル

写真左は椿園内の大島サクラ。
染井ヨシノは大島サクラとエドヒガンの交配によるものです。
写真下は椿園正門前の椿まつりステージで、あんこ娘の踊りがありました。
「あんこ娘に変身」の看板を見て、家では難しい顔をしていた父親が大島に行った時に撮ったと思われる、あんこ姿の写真を子供の頃に見たのを思い出した寅次郎です。         


公園内には「椿博物館」があります。椿の花は変異しやすく、交雑もしやすいため、園芸品種が多数作られました。花形、花柄、大きさ、花色など様々な変化が楽しめます。各品種の椿が化粧品の陳列のように並んでいました。


 テラスには鉢植えの椿が並び、窓の外は海が見えました。


 金・土・日曜日は元町港船客待合所で「夜祭り」が開催されます。



若者達の「御神火太鼓」
 お腹に響く太鼓の音でした。



若者の「スーパーあんこ娘」と「岡田婦人会」のあんこ手踊りです。
岡田地区では踊りの後に踊り手からお客様におひねりを投げる風習とのことでおひねりが飛んできました。5個ゲットした寅次郎、中身は5円かと開けて見ると、100円、30円が2個、20円、10円と手が込んでいました。

 

「伊豆大島椿まつりスタンプラリー」も同時開催。スタンプ3個で抽選1回、寅次郎は残念賞の椿のオリジナルポストカード1枚でした。
でも元町港船客待合所脇で開催の「あら汁」無料サービスではしっかり、おかわりを頂きました。鯛の味がよく出ていて美味しかったです。




帰りは元町港から高速ジェット船「セブンアイランド 大漁」に乗船。
あんこ娘の見送りを受け、久里浜港経由して約2時間で東京港竹芝桟橋へ。


            
 [こぼれ話-1] 椿の話

あんこ娘ばかりを見て来たのではありません。椿についてもしっかりと学びました。
8世紀頃(奈良時代前後)の日本では椿への信仰があり、椿油も作られていました。室町時代には園芸として椿の栽培が始まり、江戸時代に盛んになりました。これらのもとになった椿は「ヤブツバキ」で自生している白い花のものや変わった形のものを選んでかけ合わせ、さまざまな種類が作り上げられました。
昔から椿が邪気を払うと言うことから厄除け・魔除けのお守りとして神事にも使われました。
椿の花は室町時代になると茶道に取り入れられ、安土桃山時代から江戸時代にかけてさらに広く用いられるようになりました。豊臣秀吉の茶室や千利休ゆかりの寺には椿が植えられ、茶の道具にも椿が使われたものが多く残されています。花の美しさをただ楽しむだけではなく、その実を搾って作られる椿油など椿製品となり大島の人々の暮らしと深くかかわってきました。
椿の木は固く緻密で削りやすいことから、古くからこけしやこまなどの材料になりました。民芸品として昔のままの残ることは少なくなりましたが、アクセサリーなどの新しい形で椿が使われるようになりました。
椿油は防風林として植え育てたヤブツバキの種から搾ります。園芸品種の種では不可とのこと。「大島では種の入手が少なくなり、作業に手がかかり過ぎて個人経営の製油所が減り、生産量(6t/年)は村が主体で取り組んでいる利島の半分だ。椿油は是非、食用で揚げ物に!」とは見学した製油所4代目社長の言葉。(写真右上は大正時代から使われている椿油の搾り機械)

 [こぼれ話-2] 為朝の碑とゴジラの碑

2日目にサンセットパームライン(海岸線を元町港まで)を歩いた時に見つけました。説明板には「保元の乱に敗退した源為朝は捕えられ、伊豆の大島に流罪となります。為朝は流人の身ながら伊豆の島々を制圧、勢力を広げました。このことが朝廷に伝わり、伊豆の狩野茂光が命を受け、軍船で大島を攻めます。為朝は島北部の乳が崎の先端から得意の強弓で軍船を沈めますが、多勢に無勢、自刃して果てます。時に32才。この碑は鎮西八郎源為朝の武勇を称した記念碑」と記載。写真下右は近くにある「ゴジラの碑」。


説明板には『ゴジラの故郷は大島と言われています。映画では水爆実験で海底から生まれたとされていますが、実はこの大島の三原山の噴火口から生まれてきたと言われています。ゴジラは次の活動を胸に三原山の火口底で深く静かに眠っています
平成元年の作品「ゴジラ対ビオランテ」では再び噴火口から現れ、大暴れして私たちを楽しませてくれました。みなさんゴジラを起こさないでください』と記載。三原山は約2万年前から100年~200年毎に計100回噴火しているそうです。写真右上はいつの日かの噴火で 海まで流れてきた溶岩です。昭和61年(1986年)の大噴火では全島民避難(1ケ月間、1万人)がありました。昭和59年(1984年)の映画でゴジラは三原山火口に誘導され、消息不明になるラストシーンで2年後の大噴火はゴジラの祟りではと囁かれたとのこと。

               
次回は祭り番外編です。
               

  平野 寅次郎 拝