紀行
東京に こんなところ-1 |
平野 武宏 |
首都東京は徳川幕府の江戸から明治維新、そして関東大震災・太平洋戦争の被災で壊滅からの復興、1964年(昭和39年)の東京オリンピックによる街並み・交通網の再整備と時代と共にその姿を変えています。そして2020年(平成32年)の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、更に近代的な新しい姿に生まれ変わろうとしています。 「寅さん歩」で東京を歩き回っている寅次郎、「東京にこんなところもあるのだ!」と思わせる場所に出会い、感動しています。 新シリーズとして取り上げ、紹介します。但し、都民暦約4年の「寅次郎基準」で選んでおりますので、ご容赦下さい。 最寄り駅は代表例です。 ~高級住宅街の先に江戸時代の農村風景~ [次太夫堀公園 古民家園] 世田谷区喜多見5-27-14 最寄駅 小田急線 成城学園前駅 区資料によると「世田谷の歴史は古く、約3万年前から人々が暮らし始め、多くの住居跡・古墳が残り、14世紀頃には小田原北条氏と姻戚関係の吉良氏の領地となり、居城も築かれました。江戸幕府が開かれた後は江戸郊外の農村として野菜の供給地、彦根藩井伊家の領地となり、井伊家の江戸における菩提寺豪徳寺も開かれました。 大正~昭和初期に鉄道が開通すると、沿線は次第に住宅地に開発され、関東大震災が契機となり東京中心部から移転する人が増え、一層の宅地化が進みました。戦後は軍施設の跡地が学校や病院、集合住宅へと変わり、昭和39年(1964年)東京オリンピックに際して関連施設を中心に道路網が整備され、現在のような姿となりました」と記載。 高級住宅街だとの認識で、世田谷区を歩いた寅次郎、区立次太夫公園民家園を訪れた時、感動し、後日の古民家解説会にも参加しました。 保存されている古民家は珍しくありませんが、ここは世田谷区内にあった名主屋敷(主屋1棟と土蔵2棟)、民家2棟、表門を移築・復元し、次太夫堀や水田も作り、江戸時代後期~明治初期にかけての農村風景を再現しています。小田急線成城学園前駅から成城通りを抜けて、野川を越えた徒歩約15分の場所にあります。民家園全体図は写真下をご覧ください。 「次太夫堀」とは稲毛・川崎領(現在の川崎市)の代官であった小泉次太夫(家康が江戸入りで駿河から連れて来た土木技師)の指揮により、慶長2年(1597年)から15年の歳月をかけて開発された農業用水です。 正式には「六郷用水」と言い、多摩川の水を取り入れ、世田谷領(現在の狛江市の一部・世田谷区・大田区の一部)を流れるもので全長約23.2km。 世田谷領を流れる六郷用水は江戸時代、沿岸の14ヶ村の水田で利用され、土地の人からは「次太夫堀」と呼ばれ、昭和に至るまで農業・生活用水として欠かせない存在だったとのこと。世田谷区内には丸子川として一部分のみ残っています。この公園では正門手前に、かっての流路600m(写真下左)と水田(写真下右)を復元しています。 正門(写真下左)を入ると、「旧谷岡家住宅表門」(写真下右)です。 区内深沢にあり、天保9年(1838年)に建てられ、それぞれ別棟だった殼倉と納屋に門構えを加え、一棟の長屋門として、街道を再現した道に沿った位置に復元。 写真上左は表門裏側の納屋、写真右は穀倉です。 表門の先、左手に火の見があり、右手には「旧城田家住宅主屋」があります。 区内喜多見の「登戸道」と「いかだ道」の主要な道が交わる所に建っていたこの家は農業の外に商いも営む半農半商の家で「さかや」の看板もあります。 川の上流からいかだを運んだ男達が帰りは「いかだ道」を歩き、ここの2階で酒を飲み、休憩をしたとのこと。店造りの形式が多く取り入れられています。
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旧城田家の左手には「旧加藤家住宅主屋」があります。農業の外に養蚕を行い、写真下右の柱の縄を曳くと屋根の上の窓が開く仕掛けだそうです。本日の養蚕作業は部屋の温度の関係で旧安藤家住宅主屋にて行われていました。
[こぼれ話]江戸太郎重長 次太夫堀公園の近くに「慶元寺」がありました。参道にある武人の像は源頼朝の鎌倉幕府樹立に貢献があったと認められ、喜多見を含む武蔵に領地を賜った「江戸太郎重長」です。慶元寺の開祖ですが、当初、寺は江戸城内の紅葉山辺りで、江戸氏は今の皇居一帯に居館を構えていました。 太田道灌が江戸城を築く際に徴発され、喜多見に移ったと伝わります。 のちに、徳川家康に仕えると、江戸姓を遠慮して、喜多見姓を名乗り、江戸一族は江戸城から遠く離れた、この地で静かな時を過ごしています。
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次回は新シリーズ 「東京に こんなところ-2」 です。 |
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平野 寅次郎 拝 |