紀行
東京に こんなところ-2 |
平野 武宏 |
首都東京は徳川幕府の江戸から明治維新、そして関東大震災・太平洋戦争の被災で壊滅からの復興、1964年(昭和39年)の東京オリンピックによる街並み・交通網の再整備と時代と共にその姿を変えています。そして2020年(平成32年)の東京オリンピック・パラリンピック開催に向かって、更に近代的な姿に生まれ変わろうとしています。 「寅さん歩」で東京を歩き回っている寅次郎、「東京にこんなところもあるのだ!」と思わせる場所に出会い、感動しています。新シリーズとして取り上げ、紹介します。但し、都民暦約4年の「寅次郎基準」で選んでおりますので、ご容赦下さい。 最寄り駅は代表例です。 ~副都心の池袋にマンガの聖地~ [トキワ荘のヒーロー達] 豊島区南長崎3丁目 最寄駅 西武池袋線 椎名町駅 豊島区池袋の西部の長崎地区には昭和の初めから戦前にかけてアトリエ村(アトリエ付き借家群)がいくつも存在し、芸術を学ぶ学生たちが活動拠点としていました。 「池袋モンパルナス(フランスで芸術家の集まる街)」と呼ばれ、熊谷守一など画家の住居もありました。熊谷守一旧宅跡地は今の熊谷守一美術館です。 近くの椎名町では多くの若いマンガ家が暮らしていた「トキワ荘」がありました。昭和27年(1952年)12月豊島区椎名町5丁目(現在の南長崎3丁目)に棟上げされた木造2階建てのアパートです。 手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、藤子不二雄など昭和を代表するマンガ家達が上京し、若手時代を暮らし、ここから巣立っていきました。 「トキワ荘」は昭和57年(1982年)老朽化のため取り壊されて、現在は跡地の碑(写真下)があり、出版社が建っています。 南長崎・長崎地区ではトキワ荘のあった街として「トキワ荘通り協働プロジェクト協議会」を発足、イベントや若手マンガ家の支援などを行っています。 |
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[トキワ荘に住んだマンガ家達](入居期間)
トキワ荘通りには「トキワ荘お休み処」が設けられていて、1階ではトキワ荘関連グッズが販売され、関連したマンガ作品も読めます。 2階には当時の暮らしを再現した部屋があり、ゆかりの品を展示しています。お休み処の前にはマンガにもラーメン店として登場、マンガ家達が出前を取ったり、食事をした中華料理「松葉」が現存、マンガを読んで大きくなったファン達が立ち寄リ、貧しかったマンガ家達が愛飲したチューダー(焼酎のサイダ-割りで安く早く酔える)を飲み、ラーメンを食べて懐かしんでいます。 |
少し先に行くと公園があり、記念碑「トキワ荘のヒーローたち」(写真下)がありました。区の説明板によると「トキワ荘は昭和28年、手塚治虫が編集者の紹介で入居、家賃は三千円、押入れ付きの四畳半の部屋とのこと。 翌年、手塚は豊島区雑司が谷の並木ハウスに転居。空いた部屋の敷金をそのままにしておくからと藤子不二雄に入居を勧めます。彼らはあこがれの手塚の部屋に住めると喜んで入居。その後も次々に漫画家を目指して20歳前後で上京してきた若者が入居、寝食を共にし、互いに励まし合い、仕事に取り組み、今日の地位を築きました」と記載。
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