紀行

江戸・東京の祭-51
(江戸らしい祭ー22)
平野 武宏

篠崎浅間神社は、「寅さん歩 その9 東京の富士塚めぐり」で訪問時、7月1日の山開きに「日本最大規模の幟祭り」(のぼりまつり)があると知りました。「寅さん歩 その11 江戸・東京の祭-27(江戸らしい祭ー11)」で昨年、訪問しましたが、幟を上げる大祭は隔年と言われました。平成28年の「幟上げ」は大祭前の日曜日の6月26日で、1年間待って再訪問した寅次郎です。

[篠崎浅間神社 幟祭り]

   最寄駅 新宿線 篠崎駅からバス利用


 
[幟上げ]

幟柱は約21メートル、重さは1トンもある巨大なもので、人の力で10本を立てる勇壮なお祭りです。幟は昭和初期に、昔の集落5ブロックから、それぞれ一対奉納されたものとのこと。各ブロックの「幟奉行」の指揮のもと、氏子たちが上げる「幟祭り」は江戸川区指定無形民俗文化財です。
早朝6時から上げ始めたそうですが、寅次郎到着の11時には6本が上がっていました(写真下左)。但し、一番最初にあげた幟の先端に付けている笹竹の部分が折れたため「幟返し」(降ろす)(写真下右)を行うハプニングがありました。
本来の「幟返し」は祭りの終わった7月2日に最後に上げた幟から行うもので、今回のように上がっている幟の間を降ろすのは異例だと幟奉行から説明がありました。



写真上左は先端部が折れています。右は先端部入れ替えた幟上げ後です。
「幟上げ」の手順は氏子たちが巨大な幟柱をお神輿のように参道を担いで来ます。


幟柱に幟布と先頭部分に笹竹の部分を差し込みます。笹竹は火防と安産のご利益があるとのことで、「幟返し」の際に氏子にお守りとして配られるそうです。


幟布はしっかりと固定され、「幟上げ」です。東・西にあたかも綱引きのように左右に分かれて並んだ氏子たちは「幟奉行」の「東一歩」、「西半歩」の勢いのよい掛け声とともに綱を引っ張り、幟柱は次第に立ち上がっていきました。
脇の舞台のお囃子が幟上げを盛り上げます。






「幟返し」のハプニングもあり、10本目が立ち上がったのは13時30分でした。

 
[大祭]

7月1日は富士山の山開き。浅間神社の名がつく、篠崎浅間神社もこの日が大祭。
幟上げで幟柱を担いだ参道はテントが立ち並ぶ下町の祭です。葛飾柴又は近くですが、映画「男はつらいよ」で寅さんがお祭りに来て商売したシーンはありませんでした。


 [こぼれ話]食行身禄(じきぎょう みろく)


写真上左は参道奥に鎮座の「篠崎浅間神社」社殿です。
創建は天慶元年(938年)の古刹。天慶3年には将門平定と関東の平安を祈って、平貞盛が霧島神社を祀り、金幣と弓矢を献し、祈願したとのこと。社殿下には「食行身禄」の碑がありました(写真上右)

「食行身禄」とは江戸時代(寛文~享保)の宗教家。「富士講」の指導者で、本名は伊藤伊兵衛(伊藤食行とも言う)、伊勢国一志(現三重県津市)出身。
元禄元年(1688年)江戸で富士行者「月行」に弟子入りし、油売りをしながら修行を積んだとのこと。身禄という名は、釈迦が亡くなって56億7千万年後に出現して世直しをするという「弥勒菩薩」から取ったもの。
身禄は救世主、教祖的存在とし、現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、新興宗教団体として「富士講」が誕生することとなったとのこと。
享保16年(1733年)6月10日63歳の時、駒込の自宅を出立し、板橋の「縁切り榎」で家族と別れを告げ、富士山七合五勺(現在の8合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定したとのこと。富士講の中興の祖として信者の崇敬を集めました。富士講が盛んになると、江戸内ではあちこちに「富士塚」と呼ばれる小型の富士山が築かれ、実際に富士山に登らなくても、富士登山の功徳が得られるとされ、庶民の人気を呼びました。
身禄は呪術による加持祈祷を否定し、正直と慈悲を持って勤労に励むことを信仰の原点としたと言われます。墓は文京区海蔵寺にあり、写真下は鳥居のある墓前、右は奥にある墓碑。富士塚の上に墓碑があります。


寅さん歩 その9 東京の富士塚めぐり-1(新宿区)、-11(江戸川区)を参照ください。

         

次回はお江戸の閻魔大王-3です。


平野 寅次郎 拝