ウオークメイト(歩友会) 藤沢宿と遊行寺 |
2012年 02月09日(木) |
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天気:晴れ参加者:89名 距離:7km |
コース:藤沢本町駅〜御殿辺公園〜白旗神社〜義経首洗井戸〜永勝寺〜常光寺〜藤沢公民館(昼食・ウォーキング教室)〜翠ヶ丘公園〜横須賀水道みち〜遊行寺境内一周〜解散 |
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白旗神社 | 永勝寺の飯盛女の墓を見る |
常光寺のカヤの木 | 平野会長のウォーキング教室 |
西富からの富士 雲が出て残念 | 翠ヶ丘公園 |
横須賀水道みち | 敵味方供養塔を見る |
天皇家と徳川家の紋がある中雀門 | 銀杏の木の下で解散式 |
朝方、零度以下になったものの日中は陽が射し風もなく穏やかな一日、普段はなんとなく通り過ぎてしまう旧藤沢宿の寺社や遊行寺境内を時間をかけて歩いて見ましょうという企画である。 集合場所の御殿辺公園は、かつて付近に御殿があったことの往時の名残をとどめている。地図によっては白旗公園と表示されているものがあるとのことだが、地名は大切にしたいものだ。準備体操の指導は女性リーダー、声が通ってテキパキ、これから歩こうという気にさせてくれる。 10時15分出発、隣接の景観―9の白旗神社へ。古くは寒川比古命を祀っていたが、義経も合祀するようになったとされる。本殿に向かう石段の下には、杉山検校の江の島弁天道標の他、様々な形態の庚申塔が見られた。大半は道路工事などによって移設されたものであろう。 次に訪れたのは、三浦信金横の路地を入った所にある義経首洗井戸、脇に義経の首塚があった。文治5年(1189)4月30日、平泉で自刀した義経の首が、実検のため腰越に運ばれた後、捨てられたられた首が境川を遡り、この辺に漂着し里人が清めたという伝承。平泉から腰越まで45日もかかったというから、果たして義経の首であったかという疑問が義経生存説、はてはチンギスハーン義経説へとのロマンはつながる。 東海道を横断して、浄土宗永勝寺へ。山門左手に小松屋に奉公していた飯盛女の墓が39基、生国と名前が刻まれている。なぜか、殆ど、伊豆、理由が分る人、教えて下さい。永勝寺から小山(八王子山)を上って常光寺へ。途中、お社跡に弁慶塚があった。体に似合わぬ小さな塚であった。下ると常光寺、ヨネ・ノグチ。イサムノグチの父と言いた方が分かりやすいが、詩碑と墓石があった。樹齢300年のカヤの木は県の名木百選。 東海道に出て、石蔵が残る内田商店と明治末期創業のみつはし茶園の間の道を通り、突き当りが藤沢公民館。かつて家康、秀忠、家光三代将軍の直轄旅館=御殿があった場所。11時過ぎ、平野会長のウォーキング教室などの後、早目の昼食となる。冬場の食事は屋内に限る。 公民館の掃除を終えて、12時20分、午後の部スタート。御殿橋を渡り、最初の角を右折、藤嶺学園校舎を右に見て坂道を上って翠ヶ丘公園へ。左手は冠雪の富士山、午後になったので少し雲がかかってはいたが、絶景には違いなし。 翠ヶ丘公園でトイレ休憩後、横須賀水道みちへ。(藤沢地区景観―5)坂道となるが、振り向けば、一直線に道が続いている様子が分かる。遊行寺坂上まで、横須賀の「Y」や海軍の「海」の表示がある石柱が多く見られる道である。 遊行寺坂上から遊行寺までは下り道、上りも下りも箱根駅伝の難所である。 遊行寺東門から入ると、国指定の敵味方供養塔、劣化し判読できないが、案内板によると、時宗では怨(敵)・親(味方)とも区別せず平等に弔った。怨親平等碑とも呼び、根本の教えであるという。時宗の開祖は一遍上人であるが、四代呑海上人が正中2年(1325)にこの地に寺を再興、その後時宗の本山になった。 本堂を左に細い道を上ると、歌舞伎、浄瑠璃で知られる小栗判官、照手姫、そして十勇士と鬼鹿毛の墓が長生院小栗堂の裏にあった。小栗や照手の墓、塚は各所にあるが、全部セットになっているのはここだけである。 生類憐れみの令で江戸中の金魚、銀魚を集めたという放生池、今、大書院は天皇の行在所であったこと。中雀門は安政6年、遊行寺では最も古い建築であること。などなど、ゆっくり見て歩いた後、13時30分、大銀杏の下で解散となった。超スローウォークであったが、たまにはこんなウォークもあってもよいかな。(八柳修之)) |