遊行寺と藤沢宿 その1


八柳 修之
時宗総本山遊行寺

藤沢駅北口からビックカメラとスルガ銀行の間の遊行通りを直進、徒歩15分。バスなら北口2番乗り場「戸塚バスセンター行」(81 船65 藤54)藤沢橋下車2分、藤沢橋の上流に架かる遊行寺橋(通称、赤橋)を渡ると、正面に大きな黒い門が見えて来る。遊行寺の惣門、日本三大黒門と称する冠木門、通称黒門がある。だが、あとの二門はどこにあるのか調べたが分らない。黒門の手前右側にフェンスで囲まれた一角があり案内板が立っている。いわく上野、名古屋と並ぶ日本三大広小路、とある。三大なんとかと称するものは、二大までは万人認めるものだが、あとの一つはご当地だ。

 黒門をくぐると、遊行寺本堂に続く緩い石畳の坂道、48段あるからいろは坂と呼ばれている。なぜ48段なのか、阿弥陀四十八願に由来するという。
門を入って、すぐ右側の墓地に板割浅太郎の墓の案内がある。「赤城の子守唄でその名がよく知られる板割浅太郎(本名大谷浅太郎)は、天保13年(1842)赤城騒動の後、親分国定忠治と別れ渡世の
足を洗うため仏門に入り、長野の佐久市の時宗金台寺の住職の列外和尚の弟子となり僧名を列成(れつじょう)と名乗った。

後に遊行上人の手引きにより、この地に移り遊行寺の堂司を勤めた。朝夕の鐘つき、札うり、参拝者へのお茶の接待、境内の清掃に精を出しながら、念仏三昧の日々を送り、かつて自分が手を下し
た中島勘助、勘太郎父子の菩提を弔った。その精進、改心が認められ、当時この地に在った貞松院の住職となった。

明治13年(1880)遊行寺が炎上した折、60才を過ぎた列成は勧進僧となり各地を巡って浄財を募り、本山復興に力を尽くして仏思を報いた。明治2611月、74才でその生涯を閉じた。石碑に当院42世洞雲院阿弥列和尚と刻まれている」(真徳院住職) 


新国劇や東海林太郎の歌では勘太郎を討たず、勘太郎を背負って赤城の山を越えたという話になっている。一方、親分の国定忠治は浅太郎と別れた後、8年間逃げ回り捕らわれて磔の刑となった。
 
 最初から長居しすぎてしまった。いろは坂は右手真徳寺、左手真浄院と続き、上り切ると大銀杏のある広々とした寺の境内、本堂が見えて来る。途中、真徳寺の山門は赤門、ちょっとお邪魔すると左側に上部だけの杉山検校の江ノ島道道標がある。まずは本堂へお参りしよう。脇の案内板にこう書かれている。
清浄光寺が正式の寺名、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれている。宗祖一遍上人は「南無阿弥陀仏」のお札をくばりながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏を行った。この遊行寺は正中2年(1325)遊行4海上人によって開かれ、「藤沢道場」といわれ時宗の総本山になっている。



 宝物として国宝「一遍上人聖絵」重要文化財「時衆過去帳」「後醍醐天皇御像」など多数ある。境内では市指定天然記念物の銀杏の巨木、国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」、県指定重要文化財の梵鐘、長生院にある小栗判官と照手姫の墓や有名文学碑などある。

毎月、第一日曜日、第四土曜日には境内で骨董市が開かれます。





ところで、藤沢に住みながら、時宗の総本山があるというのに時宗、遊行寺の事は殆ど知らない。遊行寺発行の「時宗寶歴」を要約する。
「開宗(おしえのはじめ)は鎌倉時代1274年、一遍上人は浄土宗の開祖法然上人の弟子である証空上人(浄土宗の一流、西山派の開祖)から浄土の教えを学んだ。
時宗と呼ぶのは、一日を四時間ずつに分けて仏前でお勤めをし、時間ごとに交代した。その人々を時の衆、「時衆」と呼び、徳川時代に「時宗」と改められ宗派の名となった。
本尊は阿弥陀仏、称名(となえことば)は南無阿陀仏である。
遊行四代を継いだ呑海(どんかい)上人は、兄俣野五郎景平の援助によって遊行をやめて極楽寺の旧跡に寺を建てたのが遊行寺のはじまり。以後、遊行をやめて「藤沢山(とうたくさん)・遊行寺」に独住(定住)された上人を藤沢上人と呼ぶようにもなった」

遊行寺といえば、先ごろ樹齢800年といわれる鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊したが、八幡宮の銀杏と並んで遊行寺の大銀杏も有名で、藤沢市指定重要文化財(天然記念物)となっている。
銀杏の下の案内板によると、「かつて樹高約31mに及ぶ雄大な姿を誇っていたが、昭和578月の台風で上部が折損してしまった。樹齢は諸説あり、300700年と幅があるが、市内随一の巨木の姿は変わらない。・・・

物知り帖  歴史好きの池内さんからコメント

“板割りの浅太郎”の一文で、板割りとは何だろう? 浅太郎の家は代々大工さん(屋根葺き職人)で、遊行寺にある重文の「中雀門」の破風にある細い板葺きの板を削り屋根に貼る仕事です。
板割りの名はこの板を作ることを指します。上州は風が強いので屋根が飛ばされないように板割りを重ねて屋根を葺く。“板割りはこの家の屋号です。 浅太郎はこの家の長男。江戸時代は世襲ですから、彼は板割りの浅太郎で呼ばれます。(昔は屋号で名前を呼んでいます)
彼はこんな家を継ぐのはヤダアー と云って任侠に走ったのでしょうか。

それでは、敵味方供養塔→長生院小栗堂→放生池→中雀門→宝物館前→いろは坂→遊行寺橋(赤橋)の順に廻って見よう。 (その1完)