八柳 修之 |
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慶長6年(1601)に東海道五十三次の東海道藤沢宿が設置された。藤沢宿は江戸日本橋から6番目の宿場で、大鋸・大久保・坂戸の3町で構成されていた。宿場が整備されるまでは藤沢御殿と呼ばれる将軍の宿泊所が置かれ、17世紀前半に徳川家康、秀忠、家光の三代に利用された。藤沢御殿は現在の藤沢公民館の位置、郷土史研究家の平野雅道氏によると敷地は約6千坪、付近には御殿橋、御殿辺公園の名が残る。蛇足ながら、地名変更までこの辺りを平野町と言った。 寛永12年(1635)に参勤交代が制度化されると、大名の宿泊施設として本陣などが整えられた。鈴木自転車店手前、ラーメン屋の前に蒔田本陣跡の標柱が立っています。本陣は宮家、公家、大名が休泊した施設、一般庶民は休泊できなかった。 藤沢宿は、江ノ島や大山への分岐点として賑わい、天保14年(1843)に人数4,089、家数919、うち本陣、脇本陣が坂戸町に1軒ずつ、旅籠屋45と記録されているという。(参考:教育委員会HP)
石曽根という古いお店がある。お家の人に伺ったら大正14年創業の下駄屋さん、時代にそぐわず閉店したとのこと。はす向かいに黒い店蔵が目につく。現在も紙問屋として営業を続けている桔梗屋である。明治35年に建築されたものであるというが、蔵を使って営業しているというのは珍しい。 本町郵便局眞向かい、藤沢公民館入口左角の金物屋内田商店も古い店構えである。 坂戸町問屋場跡という表柱の先、角の関次商店にも古い土蔵がある。関次商店の角を右に入ると浄土宗常光寺(創立元亀3年 1572)がある。
山門のすぐ左脇に六地蔵、そして市指定文化財の庚申供養塔が2基ある。 境内にある県指定の天然記念物のカヤの木がひときわ目立つ。高さ25m、胸高周囲5m、樹齢約300年(推定)、かながわ名木100選にも選定され、約8千平米の寺林は市の天然記念物に指定されている。 境内には彫刻家イサム・ノグチによって建てられた父、野口米次郎辞世碑がある。その業績は藤沢市教育委員会の案内板によると「明治8年愛知県生まれ、23年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、37年日露戦争の報道のため帰国。兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に住した。慶応大学で教鞭をとり、世界各地で日本文芸について講演し、また広信・春信などの浮世絵や正倉院宝物について英文出版、さらに日本で最初の英文案内書「Kamakura」を出版したり、日本文化・文芸を世界に紹介したヨネ・ノグチの名で親しまれている。昭和22年疎開先の茨城県で没した」
道なりに下り荘厳寺の裏側を通り、突き当りを左折すると浄土真宗永勝寺がある。創立は元禄4年(1691)、山門をくぐって直ぐ左に飯盛女の墓がある。 同じく、教育委員会の案内板によると「飯盛女とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕する女として公認されていたが、遊女としての側面ももっていた。藤沢宿大鋸町では飯盛女のいない宿場がさびれたため、万延2年(1861)宿民のためとして一旅籠2名の飯盛女を置く許可を役人から得ている。永勝寺に眠る小松屋の抱える飯盛女の墓は39基あり、うち38基が宝暦11年(1761)までに小松屋の墓域に建てられている。このように供養された者は少なく、借金の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中、小松屋の温情がしのばれる」 墓石の左側に施主小松屋源蔵の名、キヨ豆州(伊豆国)、ユキ遠州など俗名が読みとれるものもある。 お参りしたら、元の道に戻り直進すると角がJAさがみ、白旗交差点まで行く途中、古いお店の北村文具店、白旗交差点を渡り、右側、三浦藤沢信金とマンションの間の小道を入っていくと伝源義経首洗い井戸がある。(その4完) |