遊行寺と藤沢宿 その1

八柳 修之

伝義経首洗井戸
白旗交差点の三浦藤沢信金とマンションの間を入って行くと遺跡を辿って義経首洗井戸がある。
NHK大河ドラマで採り上げられたこともあって、一時は観光客で賑わったが、いまは落ち着きをとり戻している。
案内板も書き換えられ、こう書かれている。
「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると、兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)で亡くなり、文治5年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られて来た。義経の首は首実検ののち腰越浜へ捨てられた。それが潮に乗って境川をさかのぼり、この辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられる。首洗井戸のみが注目されるが、脇に「九郎判官 源義経公之首塚」がある。

庚申供養塔
白旗神社
再び、三浦藤沢信金の角まで戻って、467号線を北へと進むと、白旗神社交差点、白旗神社の大鳥居が見えて来る。本殿への石段下に案内板があり、左側に庚申塔の一群がある。
市指定文化財の庚申供養塔(寛文5年・1665)、市指定の江ノ島弁財天道標1基あるから見逃さぬように。

 さて、白旗神社案内板、「御祭神 寒川比古命 源義経公 古くは相模一之宮寒川比古命の御分霊を祀って寒川神社とよばれていた。創立年代は詳しくは分らない。鎌倉幕府によって記録された「吾妻鏡」によると、源義経は兄頼朝の勘気を文治5年(1189)閏4月30日奥州平泉の衣川館において自害された。
その首は奥州より新田冠者高平を使い鎌倉に送られた。高平は腰越の宿に着き、そこで和田義盛、梶原景晴によって首実検が行われたという。伝承では弁慶の首も同時に送られ首実検が行われ、夜の間に二つの首は此の神社に飛んできたという。この事を鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗神社として此の神社に祀るようにとのことで、義経公をご祭神とし、のち白旗神社と呼ばれるようになった。
弁慶の首は八王子社として祀られる」。

石段を上った所に新しい案内板がある。内容は先ほどとほぼ同じだが、腰越で首実検したのは、6月13日、首から下の遺骸は宮城県栗駒郡栗駒町に葬られたこと。平成11年6月20日、義経公没後810年を記念して、栗駒と藤沢の有志により、「御骸」と「御首」の霊を合わせて祀る鎮霊祭を齊行したとある。

ここで、注目したい事がある。義経が自害したのは4月30日、件の首は黒漆の櫃に納られ美酒に浸し、高平は僕従二人と奥州路約500キロを歩き、腰越に着いたのは6月13日であった。この間、45日間、一日平均わずか11キロ程度しか歩いていないことになる。
なぜ、45日もかかったのでしょうか。あるいは意図的に45日間もかけたのかもしれません。鎌倉に運ばれ、首実検されたときは腐敗していたでしょう。
義経本人であるか確認できたでしょうか。替え玉だったかもしれません。この事から、のち義経生存説、替え玉説が出た訳です。


境内には白色の義経藤と紫色の弁慶藤があり、例年5月上旬が見ごろのようです。
弁慶の藤棚の前には芭蕉の「吉野行脚」の「草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花」という句碑(文化2年銘)がある。 
また10月28日には市指定重要無形民俗文化財に指定された湯立神楽という神事がある。完




   閑話休題  義経 チンギスハーン伝説

 岩手、青森には古くから、平泉衣川(高館)で自害した義経は北上山地、三陸海岸沿い、津軽、蝦夷地、樺太から大陸に渡り、チンギスハーンになったとする義経=チンギスハーン、不死伝説がある。この論拠とするところは、北行伝説となったルートに九郎判官神社や遺物が存在すること、チンギスハーンが即位したのは1206年、時代的にも符号し、紋章とする笹リンドウ、白旗は義経のそれと酷似していること、両人とも小柄であったこと、ハーンの前半生には空白が多いことなどその論拠としている。学術的にも荒唐無稽な話であるが、ロマンがある話である。関心のある方は高木彬光の推理小説「成吉思汗の秘密」をどうぞ、大学時代にむさぶり読んだものです。