遊行寺と藤沢宿 その1

八柳 修之

江の島道

江の島道は旧藤沢宿遊行寺門前の遊行寺橋(大鋸橋)から江の島まで約1里(4km)を結ぶ道である。広重の浮世絵に描かれている遊行寺橋は東海道の境川に架かる橋であり、描かれている鳥居は江の島神社一の鳥居、江の島道の入口である。遊行寺橋から江の島までの間、杉山検校道標が9基あり、これを訪ね歩く人も多い。
江の島弁財天道標は管を用いて鍼(はり)を射す管鍼術を江の島で考案した杉山検校(1601?~94)が、寄進したと伝えられる。その数、元は48基あったと言われているが、現在、欠損したものを含め14基の存在が知られているという。
道標はいずれも頂部が尖った角柱型で、地上の高さ100~130cm程度、幅22~25cm程度、正面に弁財天を表す梵字「ソ」の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られている。江の島弁財天への道をたどるすべての人が現生・来世で安穏・極楽を得られるようにとの願いが込められている。

さて江の島道、遊行寺橋・藤沢橋交差点から国道467号線を100mほど南へ染物屋さんの前を進む。
右手、元米穀商の土蔵造りの家はわずかに往時を偲ばせる。この辺り蔵前といい、江戸時代に年貢を納める蔵があった所で、年貢米はここの河岸から舟で運ばれた。
最初の道標は467号線と遊行通りの分岐点、ロータリー内にある。しかし、これは移設されたものである。遊行通りを通り、みずほ銀行から東海道線の地下道をくぐる。
藤沢市役所新館横に道標2基あるが、これも移設されたものである。移設された道標には以前どこにあったものか、案内があるといいですね。

小田急デパートと藤沢カメラの間のファミリー通り商店街は、かつての江ノ島道である。商店街を抜けると、左側に砥上公園という小公園がある。藤沢市が建てた案内板があり、次のように書かれている。「鵠沼を中心とした一帯は天平時代(735年頃)には「高座郡土甘郷(たかくらごうりとがみごう)」と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原」と呼び、西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残しています。江戸時代に入ると、江ノ島・大山詣の道筋で賑わった石上舟渡場があり、その北側に
砥上地蔵尊(1655)が建立されました。・・・」

さらに先に進むと、緩やかな下り坂となる。下り切った辺りに石上の渡しがあったとされる。
江戸時代の境川は江ノ電石上付近まで曲流していたという。ヨ―カードー・秩父宮体育館付近は低地で、今でも大雨があると水につかる。石上の渡しは江の島行の早船渡り場で、鎌倉時代に境川の渡し場として出来たという。

国道467号線を横断して上山本橋を渡ると、橋の先はミネベアの工場である。工場入口先社宅のフェンス沿いに庚申塔がある。享保15年建立、左ふじさわという文字が辛うじて読み取れる。
先を進むと川を横断する水道管、カワウが羽を休める。左に馬喰橋の案内板がある。江戸時代、新屋敷橋付近には河岸と呼ばれる船着場があり、「五大力」と呼ばれる五百石船が往来し、運上役場(徴税所)、船宿があったという。

このあと、道標は片瀬小学校門脇(馬喰橋際東から移設)、密蔵寺筋向かい角、片瀬市民センター前(移設)、西行もどり松脇(本蓮寺門の三叉路から移設)、洲鼻通りなぎさ整備事務所前(移設)、江の島神社福石脇と続く。(写真は寄り道29に掲載済み)これがいわば、江の島道の本道、このほか鎌倉小袋谷からの道、江の島脇道、浜道があった。東海道からのバイパスともいうべき裏街道、脇道について述べたい。
江の島脇道

江の島道以外にある検校の江の島道弁財天道標の所在を探ると、法照寺(鵠沼神明二丁目2-24)境内にあることが分かった。東海道線沿いを辻堂方面へ向い日本精工と神明商事ビルとの間を皇大神宮方面へ、温室を左折した所に小さなお寺がある。
浄土宗法照寺は享保年間(1716~36)頃、一説には寛文元年(1661)に創建されたという。境内には道標の他に10基ほど庚申塔が並んでいた。ここの道標は「二切衆生」とあった。いつ誰かが何のためにしたのか、心なき人のいたずらではないかとあった。
教育委員会の案内板によると、「この道標は、近所の方のお話によると、昭和22~23年頃、現在地に移設されたもので、少なくとも昭和初期にはここから北東約60m付近(今の鵠沼神明1-5、鳥居に向かって右方向に見えるT字路の日本精工内にあったとのことです。・・・」

では、法照寺の道標のあった道は、どこからどこまで続いていたのであろうか。明治15年に陸軍が測量した鵠沼村の測量図が参考となると知り、鵠沼市民センター郷土資料展示室を訪ねた。
Wさんという鵠沼の歴史に詳しい方にお会いできお話を伺うことができた。
氏によると、「古い地図から考察すると東海道から現在の湘南高校前を通り、東海道線一本松踏切に至る道があった。昭和4年に小田急線が敷設され、また昭和12年には日本精工の工場建設があり、これらの工事によって道標や庚申塔が法照寺境内に集められたものと考えられる。江の島道脇道は湘南高校前、日本精工工場角から先は明らかではないが、一本松を通ったことは確かである。

東海道線一本松踏切を渡り、理髪店の前で左折した道は、小田急江ノ島線踏切を渡り、その先、橘の辻と呼ばれる三叉路に出る。橘二丁目13の電柱の下に正徳5年建立の庚申塔があり、「右ゑのしまみち」とある。道なりに進むと、橘郵便局のある辻に出る。ここまでは、江の島道脇道であったことは確かであるが、そこから先は大正年間に行われた宅地化によって不明ではあるが、石上の渡しで藤沢宿からの江の島道と合流した」とのお話であった。一度歩いてみてはいかがでしょうか。 

「追記」検校の道標は上述の10基のほか、白旗神社境内(移設)1基、遊行寺内真徳寺境内1基(移設)、鵠沼海岸7丁目民家内1基(W氏の話では近くの道路工事の際に貰い下げしたもの)、そして鎌倉市腰越行政センター内1基(腰越漁港付近にあったもの、道路拡張工事に伴い移設)の4基がある。以上