寄り道・道草69
藤沢御殿・御殿辺公園は競馬場だった。
八柳 修之
ウォーキングの例会で解散場所によく使われる御殿辺公園は以前競馬場であったという話です。興味をもったのは一枚の地図、昭和5年(1930)に作成された「大藤沢町復興地図」である。手書きで正確性に欠くが現在の御殿辺公園の場所に競馬場があり、白旗神社側にはスタンドもあったことが分かり興味深い。

       
御殿辺という地名、御殿のあたり、際にあったからそう呼ばれるようになったのであろう。藤沢公民館(藤沢1丁目)のある場所にかつて藤沢御殿と呼ばれる徳川の御殿(宿舎)があった。公民館前に説明板が立っているだけで、現在は住宅地になっており痕跡を見ることはできない。わずかに御殿辺という地名や御殿辺橋(欄干に表示がないのは残念である)という名前のみが御殿があったことの名残をとどめているにすぎない。

天正18年(1590)7月、小田原北条氏が豊臣秀吉に降伏し、徳川家康が関東に国替えされると、家康は鷹狩と称して関東各地を視察した。当初はお寺や土豪の邸宅を宿泊所としていたが、支配の強化、戦乱に備えるため専用の御殿と陣屋を設置した。藤沢御殿は慶長5年(1600)家康が宿泊したという記録があるから、この頃には造営されていたと考えられている。


御殿の見取図は市民病院前バス停に「元禄11年、藤沢御殿跡絵図(堀内久勇氏所蔵)」の写真があり大略を知ることができるが、残念ながらどのような外観だったかの資料はないようだ。御殿は現在の藤沢公民館から妙善寺の辺りまでの間、東西193m、南北113m(約6,000坪)、外堀と内堀で囲まれていた。
鮮明でないが、現在の東海道筋の内田商店角から藤沢公民館への道が御殿通り、表門に向かって右に陣屋(御殿を管理する代官陣屋、大久保陣屋と言った)と馬屋、左に御番所、御殿地西側に御座間(将軍の寝所)があった。
御殿は家康から秀忠、家光の三代、寛永11年(1634)まで使用されたが、1635年参勤交代制が確立し支配が確立され、大名・公家の宿泊所としての本陣、それに次ぐ者の宿舎、脇本陣が置かれるようになると御殿は廃止された。「風土記稿」によれば天和2年(1682)陸田に、さらに元禄元年(1688)には完全に農地になったという。

その後、この周辺の土地利用は分からないが、現在の御殿辺公園のある場所は、白旗神社の境内、一部私有地であったようだ。氏子等が公園として整備し、グランドを設け自転車競走ほかに利用すべく寄付を集め、大正5年(1916)7月に自転車競走会を行った。
大正12年(1923)の関東大震災で、藤沢町(当時)は全壊半壊を合わせ96%が被害を受け、死者は128名、負傷者114名に達した。
この復興資金の捻出のための一つとして、藤沢町に競馬場を建設する話となった。もともと相原村橋本に高座郡畜産組合競馬場があったが、移転することになり、候補地として渋谷村長後、藤沢町、茅ヶ崎が挙がったが、利便性から藤沢に決定され、競馬場は白旗神社裏の公園に建設することになった。

競馬場は高座畜産組合藤沢競馬場と呼ばれ、その規模は、馬場12間幅5ハロン(約1000m)、埋立工費2万円余。観覧席3,000坪、スタンド正面に5間幅30間の鉄骨木造のA・B席があり建物工費は25,000円かかった。
1926年(昭和元)9月11日、第1回秋季競馬が開催され、出馬申込み数は県下一といわれたが、1932年(昭和5)秋、開催の競馬をもって藤沢競馬は廃止されている。理由はよく分からないが、第1回競馬会は収支4万円もの赤字であったという。

その後、競馬場跡は、昭和37年(1962)の藤沢市明細地図によると飯塚澱粉精麦工場となっていたが、41年(1966)の国土地理院地図では畑地となっていた。
御殿辺公園として整備されオープンしたのは、1984年(昭和59)3月、面積1.1ha、遊具があり子供達が遊ぶ。

出典:「藤沢 わがまちのあゆみ」 児玉幸多編  発行 藤沢文書館「20世紀の藤沢(続)藤沢市史別編2  発行 藤沢文書館藤沢御殿については、平野雅道「江戸初期の藤沢宿と御殿について」藤沢市史研究12号が詳しい。また、藤沢文書館の司書にお世話になった。