藤沢近辺で個人で歩けるコースの紹介です、HPひろばから再編集して掲載しています

第2弾

   関東ふれあいの道を歩く(5-2)  神奈川(⑤稲村ヶ崎・磯づたいのみち)

池内 淑皓
 2019年4月19日(金)晴れ大潮。前回(5-1)では葉山御用邸の前から歩きだして、鎌倉の由比ガ浜に注ぐ滑川に架かる滑川橋にゴールした。

 今回歩く(5-2)は、滑川橋から片瀬川河口にある藤沢市観光センター前がゴールとなる。今の時間は午前11時、稲村ヶ崎まではここから3km程あるから、干潮時で丁度良い時間だ。 新田義貞が稲村ヶ崎を歩いて渡ったと言う故事を検証したい。

 きれいに舗装された遊歩道を歩く。 歩道には素敵な絵タイルの方位板が所どころ埋め込まれている。 私は西に向かっているから、長谷大仏の絵タイルと同じ方角だ。

源実朝の句碑
由比ガ浜の高台公園にある
 稲村ヶ崎に近い海浜公園に「源実朝の句碑」が建っている。藤原定家選の小倉百人一首の一枚だ。 奈良時代から鎌倉時代までの秀歌百枚のうちの一つ。源実朝は第三代将軍(1192-1219)鎌倉右大臣。頼家の子公暁により暗殺されてしまう、齢28歳。これで源家嫡流は途絶え、北条の世となる。

実朝の句を紹介しよう
 “世の中は つねにもがもな渚こぐ あまの小舟の
   綱手かなしも”

「稲村ヶ崎」鎌倉側から見た磯づたい、地質は泥質砂岩で大潮の今、潮が少し上
鎌倉側から見た稲村ヶ崎
げてきたが、腰位の深さで十分歩くことができる(浜に降りることは禁止の表示板)。江の島側から見た磯づたいは、こちら側からも歩ける深さであるから、新田義貞の海からの攻撃は成立したと思われる。
案内板を読むと、国指定史跡「稲村ヶ崎新田義貞公渡渉伝説地」元弘三年(1333)新田・足利連合は、極楽寺坂切通の攻略で苦戦する、新田義貞は剣を海中に投じて波を鎮め、渡渉に成功し、鎌倉へ突入した。

 

小動への関東ふれあいの道道標
 関東ふれあいの道は極楽寺川を越え七里ガ浜の砂浜を歩く。この辺りは波が高いから、多くのサーファーが波乗りを楽しんでいる。しかし、明治43年1月逗子開成中学生徒12人は、ボートを漕ぎ出しこの場所で遭難、全員死亡する。同校の三角錫子先生が「真白き富士の根(嶺)」を作詞し一世を風靡する。“ボートは沈みぬ千尋の海原 風も波も小さき腕に 力も尽き果て呼ぶ名は父母 恨みは深し七里ヶ浜辺” (ジェレマイア インガルス作曲)。


 七里ヶ浜を過ぎれば小動(こゆるぎ)はすぐ。 外国人御用達の江ノ電と海の撮影ポイントを通過する、私も記念に一枚パチリ。

七里ヶ浜と江ノ電

 小動の手前の路地を右折するとすぐ源義経の腰越状で有名なお寺「満福寺」を見てこよう。元暦二年(1185)兄頼朝の怒りを買い、申し開きをしようと京から来たが、鎌倉入りを阻止されてしまう。満福寺に留まり、釈明文を差し出したが許されず、空しく京に戻る 。義経悲劇の始まりである。
折角だから「小動神社」(こゆるぎじんじゃ)にお参りしてこよう。 祭神は日本武尊。頼朝に仕え佐々木盛綱が源平合戦の折り、近江の八王子宮を勧請したと伝える。ここは江戸時代の天保13年(1842)遠見番所のあった所(異国船渡来の通報拠点)でもある。なるほど、 遠見番所跡から見た相模湾、海上が良く見渡せる。

 小動岬を回り込めば腰越漁港前を通り腰越海岸、片瀬東浜海岸へと続く。境川を片瀬橋で渡れば今日のゴール地点藤沢市観光センター前となるが、折角ここまで来たのだから、江島神社にお参りしてからゴールとしよう。

 「江の島」日本百景の一つ、神奈川県を代表する観光地。江島神社祭神は多紀理比賣命、建物は権現造り、欽明天皇13年(552)勅命により洞窟に宮を立てたのが始まり。鎌倉幕府の崇敬を受ける、江戸時代には弁財天信仰が盛んとなり、多くの善男善女が参詣するようになった。