寄り道、道草4
藤沢橋交差点を右に曲がって遊行寺の東門から入り、すぐ右側の坂道を上ると突当りに長生院小栗堂がある、小栗堂の裏には小栗とその従士十人の墓、照手姫の墓、そして小栗が乗った鬼鹿丸(おにかげまる)という馬のお墓まである。案内板には次のようなことが書かれている。
長生院小栗堂 照手姫は小栗判官の死後、剃髪し名を長姫尼と改めて小栗の冥福を祈ったという。 「伝えられる話では、応永30年(1423年)、小栗満重(常陸の国、小栗十四代城主)は、足利持氏に謀反を起こして攻められる。家来十人とともに落ちのびる途中、横山大膳の館に泊まった。ところが、盗賊大膳は照手姫をつかって満重に毒酒を飲ませ財宝を奪おうとした。照手姫の密告によって満重は命を助けられたが、家来十人は毒殺された。満重は鬼鹿丸という馬で遊行寺に逃れ上人に助けれ、のち横山一党を破る。照手姫は満重が亡くなった後、遊行上人を頼って、満重と家来の霊をとむらい長生尼となって余生を過ごした」とある。
小栗堂:照手姫は小栗判官の死後、剃髪し名を長姫尼と改めて小栗の冥福を祈ったという
ところが権威のある「日本史広事典」(山川出版)によると、「室町時代の後期、相模国郡代の横山の女に照姫(照手姫とも)がおった。常陸の人、小栗判官はこの照姫と恋仲となり情に通じてしまった。これに怒った横山は一門の者をして謀殺してしまう。小栗は閻魔大王の最後の審判の結果、餓鬼の姿でこの世に戻されてしまう。餓鬼とは生前の罪により、常に飢えと渇きに苦しみ、痩せひからびた無縁の亡者である。ある夜、藤沢の遊行上人に夢のお告げがあり、小栗を土車で熊野の峰の湯に送る。一方、照姫も相模川で殺されようとするが助けられ、美濃の国青墓の長者に雇われる。峰の湯に送られ蘇生した小栗は照姫を探し出し復讐するという話、遊行上人、時宗とのかかわりが強い伝説である」と書かれている。
前の話と後の話の筋には差があることがわかる。横山某の身分は前の話は盗賊、後の話では郡代となっている。郡代の職務は江戸時代の代官とほぼ同じだったというから、盗賊と郡代とではあまりにも違いがある。しかし盗賊が郡代になった、郡代が盗賊もしていたとすれば合点がいく。さらに前の話では小栗は毒殺未遂、動機は財宝狙い、後の話では謀殺、動機は恋仲となり情に通じたことへの逆恨みである。前の話では絶世の美人とされる照手姫の素性は触れられていないが、遊女という話もある。
小栗堂の裏にある小栗判官と十勇士の墓、照手姫、小栗の馬、鬼鹿丸(おにかげまる)
まで同じ所にあるのはここだけという
この小栗判官の話は中世から近世にかけての語り物の一つで説経節といい、もともと佛教の説経から出たものであるという。このような話は、やがて門付芸や大道芸として発達し、やがて人形芝居や浄瑠璃、歌舞伎にまで脚色されていったというから、ストリーもいろいろと違って当然である。
長生院から境内を一周し大銀杏に出て、いろは坂(四八段あったからそう呼ばれたが現在はスロープ状態)、日本三大黒門と称される冠木門をくぐり遊行寺橋(赤橋)を渡って境川に出る。西俣野の飯田牧場に立ち寄り休憩でもし、再びサイクリングロードの戻る際、左手のこんもりとした林の中の閻魔跡に小栗の墓があるので、足を止めて見てもよいでしょう。昔、このあたりで瞽女(ごぜ、目が不自由な女)が三味線に合せて小栗判官と照手姫の話を語っていたことであろう。そして、哀れにも境川で溺死した瞽女を悼んだ瞽女が淵の碑が協友製作所の裏の水路脇にある。(小栗判官の墓は各地に見られるが、照手姫のお墓も揃ってあるのは珍しい。発掘して見れば、伝説であったか判るのと思うのは不謹慎か。 )(八柳)