寄り道 道草6
板割の浅太郎の墓
  遊行寺の黒門をくぐり、すぐ左手の墓地の突当りに「貞松院住職列成和尚」の墓があり、その横に「板割浅太郎の墓の由来」という判読しがたい案内板がある。

  戦後、テレビのまだなかった頃の娯楽番組といえば、ラジオから流れる歌謡曲、落語、講談、漫才、そして浪曲であった。いまではもうTVで観られる機会は少なく、浪曲に至っては無形文化財になったといっても過言ではない。浪曲には関心がなかった私でも、博打渡世で罪を重ねたが義理人情に厚く弱きを助け悪政を許さない侠客、「赤城の山も今宵が限り〜」での一節で知られる「国定忠治」のことくらいは覚えている。忠治親分に忠誠を尽くし、自分の叔父の中島勘助とその息子勘太郎を殺した板割浅太郎、その浅太郎が忠治親分と赤城の山で別れるシーンがクライマックスである。その後、忠治は8年間逃げまとったが、捕まり最期は磔(はりつけ)の刑となった。

  一方、実行犯の浅太郎はどうなったか。この浅太郎の墓の由来は、その後の浅太郎の足跡を記している。詳しくは寄り道をして見ていただきたいのだが、要約すると次のとおりである。

『1842年、赤城山で忠治と別れた後、仏門に入り長野県佐久、時宗金台寺の列外和尚の弟子となった。のち遊行寺の堂守となり、鐘つき、参詣者の接待、清掃をしながら念仏三昧、中島親子の菩提を弔った。その精進、改心が認められ、当時、この地にあった貞松院の住職となった。1880年、遊行寺が火災に遭った際、勧進僧となり各地をめぐり本山の復興に尽くし、明治26年、74才でその生涯を閉じた』

  叔父親子を殺害した浅太郎は尊属殺人である。なぜ刑を免れたのであろうかと疑問は残る。当時はまだ寺領内はある種の治外法権が認められたのであろうか。そういえば、黒門の右脇に「榜示」と刻まれた石柱が立っている。郷土史研究家の平野雅道さんによると「土地の境界の標識として立てられた木の杭や石柱のことである」そうです。そして遊行寺の黒門、日本三大黒門の一つのなそうですが。あとの二門はどこにあるのでしょうか。疑問です。    (12・1 八柳