寄り道・道草10 西行もどり松
   西行のもどり松は片瀬市民センターから龍口寺に向かって行く途中左手、学習塾とランドリーとの間にありますが、よく注意して見ないと行過ぎてしまいます。もちろん、現在の松は西行が見た松ではなく、何度か植え替えられたものです。

  西行もどり松の名の由来について、「西行が東国へ下るとき、鎌倉への通りすがりに道端の松の枝振りに目をとめ、都恋しさのあまり、都の方を見返って、その枝を西の方へねじまげたからだといわれています。また西行がこの松の下で背負籠して鎌を持った子供を見て、どこへ行くのかと問いかけると、「冬まきて夏枯れ草を刈りに行く」と答えたので、その意味がわからず、しばらく子供の後姿を見返っていたところから、西行見返り松とも呼ばれるようになったそうです」とあります。(藤沢市教育委員会『藤沢市文化財ハイキングコース』)

  西行が江ノ島道を通って鎌倉へ行ったことは「吾妻鏡」にその記述があり史実です。

 さて、なぜ西行がこの道を通って鎌倉へ行ったのであろうか。その目的は重源上人に頼まれ、遠縁に当る平泉の藤原秀衡に東大寺再建のために砂金の勧進を願うことでした。なんと西行が69歳のときの旅でした。途中、鎌倉に立ち寄り頼朝に会い、仏の道について教えを説いたところ、お礼に銀の猫をもらったが、館を出た所で通りすがりの子供にくれてやってしまったという話は、西行の無欲ぶりが窺われる話として知られています。でも、本当に無欲だっただけでしょうか。

 西行にとってこの勧進の旅は、気の進まぬ旅であったのではないかとする話があります。辻 邦生(「西行花伝」新潮社)は文学者の視点から、西行には国文学の世界で語られているような「漂白、隠遁の歌人」とは別の現実の西行の姿があったとしています。

 私が興味を持った話しでは、鎌倉で頼朝から奥州平泉の探索の密命、いわばスパイして来てほしいという話、西行は頼朝に会ってその野望を感じ、やがて自分の一族、ルーツでもある藤原氏の運命を感じとったであろうという話などです。辻は文学者ですから、そのあたり西行の心の葛藤を見事に表現しています。

 興味をもった部分を摘記しますと、

『私(西行)の眼が、白川の関を超えてから、山河の地形に独特の注意を払ったのは、追討の大軍が攻め込んだ場合の動きを想定していたからであった』(P265) 結果的には西行は藤原秀衡を裏切ることになるのですが。
『重源もそのことを暗に私(西行)に納得させて、奥州藤原の内情密告と引き換えに、奥州藤原から勧進した砂金、財宝を安全に京都まで運ばせる保証を、鎌倉殿から手に入れように望んだのではなかったか』(P472)
『鎌倉殿は私(西行)に記念として銀の眠り猫を与えたが、おそらく、鎌倉殿のこうした心の動きに知らぬふりをし、見過ごしてほしい願望であったのであろう』(482) 西行が子供に銀の猫を惜しげもなく与えたのは、単に無欲だけではなかったことが判るような気がします。

 西行もどり松、なんの変哲もない風景ですが、こんな話もあることを知ると楽しいウォーキングになります。それにしても、西行は69歳のとき京都から平泉まで往復歩いたその健脚には驚愕するばかりです。因みに在来線で京都から平泉まで966km、西行は何日かかって歩いたのでしょうか。             (04・1・22 八 柳