寄り道・道草12
常立寺の伝元使塚
日蓮宗の常立寺、2月初めから土曜日曜、境内は見事な枝垂れ梅を観る人で賑わっていた(右下の写真:和澤 潔氏撮影)。アイランドコースを歩いているウォーカーなら一度は立ち寄ったお寺な筈である。このお寺は入りやすく、なぜかやすらぎを感じさせるお寺である。

山門をくぐった左手に高さ2メートルあまりの供養塔、その前に五輪塔が五つ並んでいる(左下の写真)。この五輪塔は、1275年、元(蒙古)の使者杜世忠(とせいちゅう)ら5名がフビライの国書を携え、無条件降伏を迫って来日したが、時の執権北条時宗は徹底抗戦を決意、龍の口の刑場で処刑、その5人の亡骸を葬った塚と伝えられるものである。これが元(蒙古)再襲となった話は、NHK大河ドラマ、和泉元弥が演じた「時宗」の記憶に新しい。

元は二度にわたって(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)来襲するが、ともに「神風」が吹いたおかげで、元軍を撃退できたと戦前は教えられてきた。ここから「神国」史観が生まれ戦前まで日本人の精神を縛ってきた。今日では運良く台風が襲来したことや、兵船の建造不良が元軍の敗退の原因だとされ、これを誰しも否定する者はいない。戦前は大国の恫喝にも屈せず、護国に身を尽くした人物として時宗は英雄視されていた。だが戦後は、腹違いの兄時輔を殺したり、元の国使を処刑したなど冷酷無残な人間だという評価も受けるようなる。

ここで注目したいのは、供養塔(法華題目碑)が、杜世忠らが処刑されてから 650年後の大正14年(1925年)に建立されたということである。当時の日本は軍国時代、神国日本の教育、しかも12年には関東大震災があり、湘南地方も少なからず被害を受け経済的にも困難な時代であったであろう。当時としては「憎き元寇」という国民感情があったと思われるのだが、異国の地にむなしく散った5人の使者を偲んで供養塔を建立した人は、相当勇気のある人であったであろう。ごく最近になって、そのお人は常立寺の先先代の磯野ご住職であるということをお参りに来られた檀家の方から窺った。そんなこともあってか、このお寺を温かいと感じたのかもしれない。
(2・29 八柳)