寄り道・道草14
馬喰橋(うまくらばし)あたり
今回は寄り道ではありません。アイランドコースの順路、境川の左岸、新屋敷橋の辺りに馬喰橋(うまくらばし)という長さ7〜8メートルほどのなんの変哲もない小さな橋がある。よく気をつけてみなければ通りすごしてしまうが、案内板がある。

案内板にはこう書かれている。「新編相模国風土記」は、源頼朝が片瀬川に馬の鞍を架けて橋の替りにしたことから馬鞍橋、また昔馬がこの橋にさしかかるといななき突然死んでしまうことから馬殺橋と呼ばれたが、あるときに行者聖が橋の石を取り替えてから災難はなくなったと伝えています。ほかにも文化5年(1808)の片瀬村の石橋建立発起帳には馬鞍結橋とあります。何度も流出し、明治末年には長さ2間半、幅2間の木の橋となっていました。この付近は江戸時代に江ノ島参詣の往来のほか、海上交通の拠点としても賑わったところです」(藤沢市教育委員会)

この片瀬川とは片瀬山方面から流れて来た川で河口に架かる橋が馬喰橋なのである。現在では河口までを境川と呼んでいるが、昔、境川は片瀬地区に入ると名前を換え、下流は片瀬川と呼んでいた。

さて、案内板を見て興味があったことは、文末尾の「海上交通の拠点としても賑わった所」ということであった。やっぱり寄り道して図書館で調べてみた。藤沢市の地名という市が発行している古本によると、馬喰橋が洪水で壊されてしまうと、ここから江ノ島への参詣人は山岸を伝わって遠回りしていくか、川を船で行ったという。江戸時代、新屋敷橋付近には河岸(かし)と呼ばれる船着場があり、「五大力」と呼ばれる五百石船が往来し、江戸方面へ年貢米のほか、米、麦、木材などが積み出され、入れ替わりに塩、酒、肥料などが荷揚げされていた。ここには運上役場(筆者注:工商や運送貨物にかける税金を徴収した役所のこと)が置かれ、船宿もあり藤沢宿周辺の物資の出入港として重要な位置を占めていた。また明治時代には江ノ島へ人を渡す早船が行き交っていたという。

とても現在の姿からは往時を想像できない。五百石船とは米1,250俵を積める船(約75トン)、浮世絵などによると一枚帆、徳川幕府は寛永令の武家諸法度により五百石積以上の船の建造を禁止したから、当時としては最大級の船であった。いまでいう境川、川幅も広く流量も多く、潮の干満を利用した潮待ち港であったであろう。前掲書によると、船宿があったことなどからカシヤ、カキヤという屋号も残っているとのことであった。

改めてその付近にカシヤ、カキヤという屋号がある家があるか訪ねてみた。馬喰橋の横は大きな倉庫・駐車場となっていた。新屋敷橋の角に「魚邦」というお店がありこのお家かと思ったがお店は閉じられていた。河口に向かって20〜30メートル歩くと、老婦人が花を摘んでいたので訊ねてみた。御年90歳、ここに住んで30年以上という老婦人は、屋号のこともましてや昔、ここに船着場があったことは初耳だと言った。それはそうだ。現在は河口まで護岸工事がなされ、五百石船ならぬプレジャーボート、ヨットが列をなして繋留され、対岸は大きなマンションが建っている。 (5・8 八柳