寄り道・道草 19
 江の島道の片瀬公民館と八百屋さんの間の細い道の先に一遍上人地蔵跡がある。鎌倉時代、時宗の開祖、一遍1239〜1289)は全国を遊行中、1282年(弘安5年)3月1日に鎌倉に入り布教しようとしたが、執権北条時宗により鎌倉入りを拒否された。そのため、翌2日片瀬の館の御堂で念仏を行い、さらに片瀬の浜の地蔵堂で念仏を行ったとき、あらゆる階層の人々が踊念仏を見るために集まって来た。その人々の様子は「一遍聖絵」に描写されている。
 一遍はここに7月16日まで4か月以上とどまった。一遍が遊行の旅で一番長く滞在した所で、一躍、有名になった記念すべき場所なのだが、現在は住宅地の中にある猫の額ほどのミニ公園(片瀬3丁目まちかど公園)となっており、碑が一本と藤沢市教育委員会が平成16年3月に立て真新しい案内板、それにベンチが二つあるだけである。
「一遍聖絵」12巻は、東京国立博物館、遊行寺宝物館に所蔵されているが、遊行寺宝物館に複製が展示されている。ここで、前述の説明文、踊るためではなく「見るために集まって来た」「4か月以上とどまった」という文言に注目したい。
 一遍上人の遊行は1274年、故郷の伊予から始り、九州を一周した後、北は岩手県の江刺まで遊行し、1289年、50歳で亡くなっている。最初の頃の布教は「南無阿弥陀仏」ととなえ、お札を渡して、念仏を勧めていただけであった。踊念仏が始まったのは遊行してから5年目後の信州からで、聖絵にもその様子が描かれている。ところが聖絵ではその後ばったりと踊念仏の記述がない。再び登場するのは3年後、片瀬の地蔵堂である。ここでの踊念仏は以前とは全く様子が違っていた。高床に屋根付きの舞台が組まれ、踊っているのは僧尼たちだけで、一般の参加はないという。
 この絵の変化について東大の松岡教授は次のように述べている。 踊念仏は『踊念仏興行』に転化した。それは教団が解散の危機にさらされていたからだった。この危機を乗り越えるため一遍は起死回生の二つのパフォーマンスをした。一つは時の権力との対決。鎌倉以外なら構わぬといわれて、片瀬の地蔵堂に移る。『北条時宗と喧嘩する凄い坊さんがいる』ということで一躍有名になる。二つめは踊念仏を「興行」とし、大当たりしたことだった。この踊りで重要な役割を担ったのが、尼さんたちであった。踊るうちに恍惚の世界に入り込み、その表情に人々は、あそこには極楽浄土があると思った。舞台の上で裾を跳ね上げて踊る尼さん、ハードロックの乗りだったに違いないと。
世は南北朝前夜、蒙古襲来の不安、既存の仏教は権力者のために異国降伏祈祷を繰り返すだけだった。民衆の怒りと不安は高まるばかり、そこに現れたのが、一遍の踊念仏、エクスタシーを伴う踊りは、行き場のない人々の怒りと不安を解消するのに十分だった。
 後日、遊行寺宝物館で、一遍が鎌倉入りしようとして巨福呂坂で制止されている絵(5巻5段)と片瀬の地蔵堂での念仏踊の絵(6巻1段)、いずれも複写ではあるが、観ることができた。地蔵堂での念仏踊には、いろいろな階層の人々が見に集まって来た様子が描かれ、その服装や持ち物などから民俗的にも興味深かった。
(参考資料:藤沢市教育委員会作成の案内板。20031119日付「朝日新聞」特集絵画日本史『一遍聖絵』7・4八柳