寄り道・道草 21
遊行寺から石上の渡しへ


遊行寺門前の遊行寺橋、赤橋ともいうが、江戸時代の正式名称は大鋸橋(だいぎりばし)といった。広重の「東海道五十三次」の藤沢宿、保永堂版の浮世絵では、お参りを済ませた人々が山門を出て橋を渡り、手前に立つ江の島弁財天一の鳥居を潜ろうとしている場面が描かれている。ここは鎌倉道、江ノ島道が交差する交通の要衡だった。photo3012.jpg
今回はリバーサイドコースを左回り、遊行寺橋から石上の舟渡しがあったと思われる所まで、旧江ノ島道を忠実に歩いてみよう。
遊行寺橋の前には高札場の跡がある。幕府の法度、掟、犯罪人の罪状などを掲げた所、今流、掲示板である。
藤沢橋の交差点を渡って県道
467号線を藤沢駅方面へ30米ほど進むと右側に砂山観音がある。石段を登った所に観音堂がある。昔、このあたりは、見渡す限りの砂原で、小高い観音堂あたりからは遊行寺、西富方面がよく見えたようで、更級日記の作者、菅原孝標の女(むすめ)が、「屏風を立て並べたようだ」と記したという。50%OFFでもオーバーな表現だが、広重の浮世絵でもデホルメされている。山号は金砂山、遊行寺の持寺であったというから、真徳寺に江の島道道標が移された説もうなづける。
佐藤染物店前を右折、道の右側に旧道の面影をわずかに残す土蔵の造りの家がある。もとはお米屋さんだったそうで、このあたり、江戸時代に年米を納める蔵があったため蔵前とごく最近まで呼ばれていたという。その先、県道467号線と交差するところが三叉路になっていて、江ノ島弁財天道標が立っている。左手は市役所、市民会館方面への467号線であるが、道なり右手の遊行通りを進む。往時は賑わった通りであろうが、元気はイマイチである。
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和風の古い金井旅館の隣に庚申堂がある。柵があるので中に入ることは出来ない。物の本によると、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、明治23年にこの庚申堂を訪れ、その様子を「知られざる日本の面影」の中で書いているというのだ。高校時代英語の副読本で学んだ筈なのだが全く思い出せない。
遊行通りを過ぎ、藤沢駅の地下ガードを潜り南口に出て、小田急デパートと藤沢カメラの間のファミリー通りを通る。これが、旧江ノ島道である。昭和37年から鵠沼石上にお住まいの事務局長の長津さんによると、当時の道幅は現在の半分程度であったという。ファミリー通りの先に砥上公園という小公園があり、鎌倉時代は砥上が原といい、江戸時代には石上の舟渡し場があったという案内板があった。公園内には道祖神、庚申塔、馬頭観音など8基、並んでいた。おそらく道路拡幅の際、移転したものであろうと長津さんはいう。
さて、なぜ、この通りが旧江ノ島道なのか? 明治16年発行の地図を見ても歴然とするが、境川と柏尾川とが合流した後、大きく蛇行している。現在の南藤沢から秩父宮体育館あたりに至る467号線は境川の流路、氾濫源であった。そして鵠沼石上辺りは川袋と呼ばれていた。川の近くに「袋」がつく地名があれば、曲流の跡と考えられている。蛇行の激しい川は洪水を起こしやすいので、境川は明治期に河川改修され現在のように直線の流路となった。川袋の奥は湿地帯として残され、「はす池」が今でも残っている。
さて、道は長津さん宅の先で行き止まりになる。左に曲がり467号線を横断し、東京ガスの横を通り、上山本橋に出る。おそらくこのあたりに、石上の渡しがあったものと思われる。
その証拠を求めて橋を渡った。対岸はミネベアの工場である。何か手がかりになるものはないか、守衛さんに尋ねると、工場の敷地の角に庚申供養塔があるという。それだ。見ると享保十五年の刻、左ふじさわとやっと判読できた。庚申供養塔であるが、道標も兼ねたものであった。江の島方面から来れば左は藤沢、直進して川名から右折すれば鎌倉方面への道である。
だが、この庚申供養塔、下はセメントで固められていたので、どこからか移転されたものであるかもしれない。この先はすでに述べた馬喰橋(うまくらばし)である。(81 八柳)
(参考資料:「藤沢史跡めぐり」藤沢文庫刊行会編、「東海道五十三次 藤沢宿史跡ガイドブック」平野 雅道、「藤沢の地名」小林 政夫(藤沢市生涯学習大学テキスト)