寄り道・道草 24

諏訪神社上社


ウォーキングをしていると諏訪神社という神社はよくお目にかかる神社である。江の島道にも江の島から藤沢方面に向かって歩いて来ると密蔵寺の先50メートルほどの右手に上諏訪神社がある。道と平行する石段を10段登ると、目の前に大きな鳥居、急傾斜の石段がある。上の社殿にまで登るのが大変なのか、鳥居の下には賽銭箱がある。
鳥居の右に「諏訪神社上社御由緒」という新しい石碑がある。この石碑によると「わが国には諏訪神社は5,000社を数えるが、上下両社を備えているのは信濃諏訪本社とわが諏訪神社のみといってもよい」と最初に書かれている。
神社の創立は「養老7年(723)信濃国諏訪大社の御分霊を勧請、祭神は上社が建御名方命(たてみなかたのみこと)下社が八坂刀売命(やさかとめのみこと)」である。
調べてみると、諏訪神社は古事記や日本書紀にも出てくるわが国最古の神社である。そして建御名方命という神様は大国主命(おおくにぬしのみこと)の第二子、八坂刀売命は妃神である。どこにでもある諏訪神社は、通常この二神を祭神としている。諏訪神社、古くは狩猟の神として崇められてきたが、のち農耕神、武神として信仰されているという。
「上社は天長3年(826)は諏訪ヶ谷の地より浪合(現片瀬山5丁目)に、下社は弘仁3年(612)に宮畑より鯨骨(現片瀬3丁目、こちらの下諏訪神社の方がお祭りなどで馴染みがある)に移された」「上社は939年に修理されているが、1333年、新田義貞鎌倉攻めの折、類焼に遭ったこと。その後、1778年の改修を最後に以来200年間修理されていなかったが、甘糟豊太郎、三郎、四郎の三兄弟が社殿を造営・整備した」ことが碑に刻まれていた。
急勾配の77段の石段を上り詰めた先に社殿があったが、扉がしてあってそこから先には行けなかった。例大祭のときに扉は開かれるのであろうか。せっかく登ったのにと一寸残念であったが、ここから眺める景色はそれに見合うだけのことはあった。右手の家の屋根が邪魔だが、相模湾、微かながら富士山が見られた。
余談ながら、「浪合という地名は、昔、大津波が岩屋不動尊の辺りで片瀬川の流れとぶつかり、浪が合わさった所という意味、下諏訪神社の前の池(諏訪池)に大津波に乗って川を遡った鯨がこの池に打ち上げられ、骨を埋めた鯨塚があったので、鯨骨の地名になった」そうである。諏訪池は神池とも言って、昭和40年代まで残っていたとのことであるが、埋め立てられて住宅地となっていた。鯨塚も探し歩いたが見つからなかった。
(参考資料:「諏訪神社上社御由緒」、諏訪大社ホームページ、「藤沢の地名〜自然地名の由来をさぐる〜小林 政夫」14年度藤沢市生涯学習大学かわせみ学園教材 827 八 柳)