寄り道・道草 25
船玉神社辺り
藤沢橋を遊行寺坂方面へ向かうと、最初の角を右へ曲がる道がある。なんの変哲もない道ですが、この道は、川名、深沢、笛田を通って長谷へ通じる鎌倉道でした。
大滝川という小さな川に架かる橋、舟玉橋を渡ると、その先、右に船玉神社という小さな神社がある。船久保町自治会(旧名の町内会)が建てた案内板によると、「祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)」、日本武尊の奥方、女神である。船玉とは船霊のことで、船中に守護神として祭る神である。日本武尊が走水(横須賀)から房総に渡ったとき、荒れ狂う海に身を投じて日本武尊を助けたという故事から船の航行安全を守る神として崇められるようになった。
「昔は江の島からこの付近まで船が出入りしていたといわれ、鎌倉三大将軍 源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられています。ここは大鋸(だいぎり)いう地名ですが、大鋸引きという職人たちが住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたといわれています。また、この神社は乗船成就海上守護の願いにより勧請されたものと伝えられているそうです」と書いてあった。
源実朝が宋へ行くことを企てた船ですから、この辺りには、相当量の用材があり、また造船技術を持った船大工の集団が住んでいた所であったことでしょう。
調べてみると、新編相模国風土記稿(天保12(1841)の中に「鎌倉郡藤沢宿大鋸町 北条氏分国の頃、大鋸挽の工人等居住し、かつこの地をその職田に宛行(あてがい)故に地名起れり」とあります。これら大鋸挽の工人たちによって、遊行寺の造営、玉縄城や小田原城の修築までが行われていたことが、古文書(森家文書、市指定文化財)によっても知られているという。
さて、自治会の案内板には、後段がありました。「この道10メートル先を右折し、段階段を登った所に藤稲荷大明神があります。藤稲荷は大鋸の御幣山(おんべやま)の西はずれにある藤沢宿最古の稲荷だそうです」遊行寺方面から来たので、来た道を引き返し石段を登った。坂の中腹に小さなお稲荷さんがあり、その先、道は藤沢団地へと続いていました。
昔、この辺りの山から船を造る用材を切り出したのでしょうか。郷土史家の平野雅道さんによると、「昔、この辺りに藤が生い茂り、斜面一体は花の咲くころ、紫の雲のようで、一説には藤沢の名の由来ともなったといわれる」とか。そういえば、藤沢の名の由来を聞いたことがない。市のホームページの沿革にも記載がなかった。藤沢の名が初めて登場するのは、「太平記」1333)新田義貞の鎌倉入りである。「…・村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂五十余箇所に火を懸け足り鹿場、武士東西に駈け違ひ、貴賎山野に逃げ迷ふ・・…」と、藤沢市の花の藤、藤沢市の名の由来を知りたいものです。
(参考資料:平野 雅道著「藤沢宿史跡ガイドブック」、「歴史を刻む地名〜藤沢の歴史地名をめぐって〜湯山 学 カワセミ学園講義資料)(9・17 八柳)