寄り道・道草 26

小泉八雲が見た庚申堂

 

「寄り道・道草21 遊行寺から石上の渡し」で、遊行通りの江ノ島道道標がある三叉路、金井旅館の横にある庚申堂を、かって小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、訪れたことがあったことを一寸述べた。
小泉八雲は日本人の精神文化などに深い関心と理解をもち、広く世界に紹介した事で知られている。大津波を予知して、村人に知らせるために自らの稲束を燃やす「稲むらの火」は小学校の教科書にも採り上げられた。また「怪談」「耳なし芳一」や「雪おんな」も広く知られている。今年9月には没後、100年を迎えたということで、異文化共生の先駆者としても注目されている。
外国人の目に「庚申堂」はどのように映ったのであろうか?
ハーンが日本にやって来たのは明治23(1890)である。最初、松江中学に英語教師として赴任する前、横浜に5か月間滞在し、その折りに江ノ島を訪れている。江の島の様子については、彼の著作「知られぬ日本の面影」中、「江ノ島巡礼」に書かれていることが判った。「知られぬ日本の面影」は見つけることができたが、「江ノ島巡礼」は収録されていなかった。孫引きになるが、北沢瑞史著「藤沢の文学」の中に江ノ島や庚申堂についての記述があったので紹介したい。(「  」内はその引用、『  』は八雲の原文である)
「江ノ島での描写は島の印象、弁財天、竜窟など詳細にわたっているが、江ノ島の貝細工については……『名状し難い貝細工の宝玉箱・・…』と絶賛に近い描写がある」北沢さんによると「当時から昭和20年前までは、江ノ島の土産物は、各家がそれぞれ細工に工夫を凝らして独自のものをつくっていた」という。今でも、江ノ島道の泉蔵寺と上諏訪神社の間に(有)I貝細工という製作所がある。
「さらに小泉八雲という人間を決定付けるような場面が登場する。江ノ島からの帰途藤沢へ向かう路傍に六体の石像に惹かれ、人力車を止めて庚申に対面する。これに似たものは藤沢の村の中に、庚申の神社があると聞くと、早速に庚申堂を訪れるのである。古い木造の祠は荒廃して世間から見捨てられ、風雨に打たれまかせであった。(中略) その姿に落胆しながらも、境内の石像を丹念に見て回り、実に詳しい観察をしている。庚申の絵を買いたいと八雲が番人に告げると、絵は売っていないが、庚申の一幅の掛け軸がある。「見たいならば帰って持ってくる」というので依頼する。しかし、その掛け軸を見て失望してしまう。信仰がしだいに薄くなり、やがて消えてしまうこと、神、仏の命がしだいにこの世から失われてゆくことに憤りを感じるのである」
この一文からすると、金井旅館の隣にある庚申堂は、当時からかなり傷んでいたことが窺がえる。だが、当時の藤沢の人々について、興味ある一文もある。『・・…それを観ているうちに私は始めて周囲に群集が来ていることに気が付いた。・・…野良仕事から来た、親切そうな、日に焼けた顔の百姓共、赤ん坊を背負ったお母さん達、小学生の子供、車夫などが、皆外人がどうしてこんなに彼等の拝む神々に興味を感じているのかと不審がっているのだった。そして周囲からの圧度は極めて柔らかで、恰も生温るい水が身にあたるようなものであったが、私は幾分当惑した』
「藤沢の人々がいきいきと登場している。その藤沢人への八雲のやさしい眼と、素朴な村人のやさしさが、ある懐かしさで結ばれていることを注意しておきたい」
八雲の帰るべき時刻が来た時のことである。『機関車の汽笛が丁度列車に間に合うだけ、時間のあることを警告した。それは西洋文明が鉄道網で、すべて原始的な平和を征服したからである。哀れ庚申の神よ、これは汝の道路ではなくなった。往昔の神々は西洋文明が石炭の残灰を撒き散らす路傍で、死に瀕しつつあるのだ』と言い残して藤沢を去る。
蛇足ながら、明治20年(1887)7月に横浜、国府津間に鉄道が開通し、藤沢停車場が出来、以後、藤沢は変貌を遂げてゆくのである。(10・6 八柳)
(引用文献:北沢瑞史著 「藤沢の文学」(藤沢文庫)