寄り道・道草31

児玉神社

 アイランドコースのチェックポイントである江ノ電エスカー横に児玉神社がある。
参道の手前に嫌でも目につく大きな案内板がある。「祭神は児玉源太郎大将(1852〜1906)、勝運の神、日露戦争の満州軍参謀長として勇名高きのみならず、政治家として陸相、文相、内相、特に台湾総督、満鉄経営委員長・・・・」とあるので、まあ、お参りしなくともいいや、と思われるウォーカーも多いかもしれない。だが、一度は行ってみるだけのことはある。

社殿に至る緩い勾配の参道脇に立つ石灯篭、台湾製糖など植民地時代の寄進者名が目につく。左手の木々の間からは、片瀬西浜海岸を望むことができる。
神社は、「大正10年、児玉の崇敬者によって建立されたものである。児玉は軍人、政治家として名を馳せたのみならず、教育家としても成城学校(成城学園ではない)を創立、育英に務め中国、朝鮮留学生の教育に先鞭をつけたと人」でもあった。

参道突き当り、右に曲がる角に、「咸臨丸図面発見の地」という記念碑がある。咸臨丸のレリーフと銅版の説明文がかろうじて読み取れる。
咸臨丸は江戸幕府が海軍創設のためにオランダに発注して建造した軍艦である。勝海舟らが米海軍士官の支援を得て、万延元年(1860)、日本人初の太平洋横断を成し遂げた話はつとに有名である。その後、咸臨丸は北海道開拓使の運搬船として使われたが、1870年北海道沿岸で難破してしまった。
 それからおおよそ100年後の1968年、オランダロテルダムの海洋博物館で咸臨丸の設計図が発見された。1989年に復元され、長崎のハウステンボスを母港とし、観光船として活躍している。
この碑はオランダ政府から設計図を贈与されたことに対する謝恩を表するため、1983年、咸臨丸復元保存協会によって建立されたものである。レリーフの製作は小沢勇寿郎、世話人の名の中に勝姓が見られるが、おそらく勝海舟の関係者であろう。だが、なぜ江の島の地に建てられたのかについては触れられていない。

そして,二番目の見ものは社前の狛犬である。狛犬がくわえた珠が口の中でコロコロ自在に動く珍しいものである。腕利きの石工の作であろう。
石の珠を回していると、私より年配とお見受けする人が「こんな狛犬、台湾では珍しくないよ。石工の名前なんか台座に刻むことはないんだ」と、のたまった。確かに台座には総督の名、寄贈年月、石材地が刻まれているだけであった。レリーフの作者同様、石工も芸術家であろうが・・・・・ 

社殿は、「伊東忠太郎博士による神社建築の模範設計と称される」とあったが、素人目には違いがわからず、三番目の見ものかは分からない。                                     (1・1 八柳)