寄り道・道草 33

福石と杉山検校


 アイランドコースのチェックポイントは江ノ島エスカー前であるが、参道の石段、瑞心門をくぐり進むと右側に福石と刻まれた庚申供養塔、杉山検校が建てたゴールとなる江ノ島弁財天道標があり、その奥に福石が鎮座している。
案内板が立っており、それにはこう書かれている。
「杉山和一は、慶長15年(1610)に生まれて間もなく盲目になり、江戸に出て医を学んでいましたが、物覚えが悪いため師匠に見放されました。そこで、江の島にこもり、21日間断食をして技術の上達を祈りました。満願の日、神域をはなれる途中、この石につまずいて倒れ、気を失ってしまいました。すると美しい五色の雲にのって弁財天が現れたので、手を合わせて拝もうとしたところ、何やらちくちく身体を刺すものがありました。それで、意識を回復し、手にとってみると松葉の入った竹の筒でした。これにヒントを得て、管鍼術(かんしんじゅつ)を考案して、その元祖となり、それによって徳川綱吉の病を治療し、関東総検校に栄達されたといわれています。それ以来、この石のそばで物を拾うと、福運を授かるということで福石と呼ばれるようになりました」

 何か落ちていないかと探したが、清掃が行き届き何も拾うものはなかった。
総検校とは盲人に与えられる最高の官位である。犬公方の綱吉に可愛がられ、江戸本所に邸宅を与えられている。杉山検校は江の島弁財天を深く信仰し、辺津宮社殿を再興し、護摩堂、三重の塔を寄進している。このために江の島神社が広く盲人、鍼治師などの信仰を集めたもととなっているという。そういえば、広重の「東海道五十三次」の藤沢宿、保永堂版の浮世絵の中に江の島参りをした人々の中に、注意して見ると盲人の姿が見られる。また、江の島神社(奥津宮)の手前に山田検校(山田流筝曲の開祖)の顕彰碑も見られる。
検校は元禄7年(1694)、当時としは超高齢の84歳で亡くなっている。亡骸は根岸の弥勒寺に葬られ、翌年、次の総検校三島によって江の島に墓碑が建てられた。これまで江の島の墓は分骨されたものと考えられていたが、関東大震災後の修復工事の際、江の島の墓が本当の墓であることが明らかとなった。
墓所は福石を右に曲がり朱の橋を渡った先、市民の家の脇から海側に下った所にある。このような説明が点字でもなされている。                    (3・21 八柳)