寄り道・道草 37
富士講の碑

 7月23日の例会「都築の三富士」では、富士のお山を三ヶ所訪ねるという。
古来から富士山は日本人にとって特別な山であり、信仰の対象ともなっていた。信仰ではないが、ダイヤモンド富士を追っかけするマニアも富士山の魅力にとりつかれた一種の信仰に近いものがある。

 富士山に対する信仰の歴史は古く、遠くは平安時代には登山する行者も現れ、室町時代には登山によって祈願する登拝も行われ、講も組織されたと伝えられる。しかし民間の間に多くの講ができて、登山ブームが起こったのは江戸時代後期のことであった。村上光清派と食行身禄(じきぎょうみろく)派があったが、後者が有力となり,食行身禄の講話はのちに「三十一の御伝へ」といわれて富士講最高の教典となった。食行身禄は、飢餓などの社会不安が続くなかで現世利益を説き、救世や平等的考え方を主張、尊皇思想と結びついて講を拡大していった。このため幕府は富士登山の禁止をいくたびも出して統制したという。

 富士塚というものを作り出したのは身禄没後3年目に名を上げ始めた高田藤四郎である。一つは師を追悼する記念物として、もう一つは本物の富士山に登れない人たちにその喜びを与えようとしたためであった。富士塚のある所、富士見坂の地名がある所は、かっては富士山のよく見える場所であった。そのような場所は台地の南西側の肩にあたる場所にあった。今、そのような場所は格好な住宅地となっている。

 片瀬小学校脇に杉山検校が建てた江ノ島道道標があるが、少し密蔵寺に入った所に庚申塔などの石仏、石碑群がある。江ノ島道に建てられていたものであろうが、道路の拡幅でここにまとめられて置かれたものであろう。その庚申塔の中に富士山を刻んだ珍しいものがある。富士講の庚申塔であると思われる。

 その庚申塔は写真のとおりであるが、あまり鮮明でないので、説明すると庚申塔の上部、左に太陽、右に月、瑞雲、富士山の順で彫られ、庚申と大書し、下部は三宝の上に米穀を盛った枡、三宝の下に見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が彫られている。正面、左側と右側には文字があるが、判読できない。

境川の左岸、奥田堰跡橋の辺りにも、庚申塔が7〜8基まとめられて建っている所があり、この中にも富士講の碑がいくつか見られる。そのなかには、四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所を全部お参りした人々の記念碑も建っている。そのうち、イヤーラウンド・プラチナカード完歩(1,333回)の記念碑なんて建たないかなぁ。多くのイヤーランドウォーカーは20キロ歩いているから、20km×1,333回=26,660km。最も長い四国八十八ヶ所巡礼でさえ、総歩行距離は1,450kmである。達成すれば偉業であるに違いない。

(参考文献:「日本史広事典」(山川出版社)など)八柳