寄り道・道草 43
遊行寺の中雀門と行在所

 遊行寺の黒門、いろは坂を登りきった所に大銀杏があり、真っ直ぐに進めば本堂であるが、大銀杏を左に曲がった所に中雀門(ちゅうじゃくもん)という立派な門がある。中雀門とは広辞苑によると、中雀は鍮石(ちゅうせき)の当て字、扉に真鍮の金具を打ちつけた門のことである。門の右に藤沢市教育委員会が立てた案内板ある。

「中雀門は安政年間(185460)に建造されました。清淨光寺(遊行寺の通称)は創建以来、たびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治13(1880)の大火災の際にも焼失を免れた。現在は境内で一番古い建物です。大正12(1923)の関東大震災でも焼失は免れましたが倒壊したものを、そのまま復元して今にいたっています。向唐門(むかいからもん)づくりで、高さ6m、幅は3.7mです。側面の大棟に菊の御紋、屋根の下に徳川家葵の紋が刻まれています。

 普段は閉じられていますが、春と秋の開山忌やお正月などには開門されます」
なるほど上を見上げると、中央の棟に菊の御紋があり、屋根の下の部分に三つ葉葵が刻まれている。なぜ菊の御紋が刻まれているのであろうか。
遊行寺が行在所(あんざいしょ、天皇がお出ましになるときの仮の御殿)として天皇家に使われたからであろうか。
 掃除をしていた修行僧に訊ねてみた。「遊行寺の12代が南朝皇室の出であったことによるものと言われています。それから、裏に廻って彫り物をよく見てください。ふくろうが彫られていますよ」と親切に教えてくれた。ふくろうはギリシャ神話では全知全能の神である。なぜ寺院にふくろうが彫られているのかは分からない。

 中雀門をくぐった先は本坊である。本坊には明治天皇が何回かお泊りになっている。大銀杏の横にその記録の案内板があり、宝物館入口には明治天皇の御膳に使われた御膳水井戸がある。明治元年(1868)3月、江戸城が開城し、9月20日、明治天皇は京都を出発し東京に向かわれた。この遊行寺に初めてお泊りになったのは1010日、ご出発されてから21日の道のりである。その後、天皇は元年12月、2年11月、5年8月に2回、1111月と計6回、皇后陛下は箱根や京都への行啓の際5回使われている。1111月、北陸へ還幸の際には岩倉具視、大隈重信、井上馨、品川弥二郎、山岡鉄太郎(鉄舟)等50名が随行している。これが明治天皇がお泊りになった最後である。

 その後、明治34年、東宮殿下(大正天皇)が鎌倉の御用邸より来山された記録があるだけである。因みに明治22年、東海道線は新橋・神戸間全線開通している。(107