寄り道・道草44

奥田堰碑

 境川左岸沿いの道を遊行寺方面に向かって歩いて行くと御所ケ橋と大正橋の間に車は通行できない「えんせき橋」という橋がある。その橋の袂に奥田堰碑が建っている。昭和585月に建てられたものである。

 寄り道・道草25「船玉神社辺り」で触れたが、この辺り大鋸(だいぎり)旧名は船久保という所で、鎌倉時代、幕府が中国は宗の国へ渡るためこの辺りで大船を建造した所であった。

 また江戸時代にはこの辺りに藤沢近辺で集められた年貢米を積み出す河岸もあった。その航海の安全を祈願したのが船玉神社(祭神は弟橘姫命)である。碑文には大略次のような歴史が書かれている。


『いつの日かより自然の流れを利用して水田を開き、堰を築き大鋸堰と称した』とあり、堰ができた時代については明らかではない。

『明治13年から、この地域が鎌倉郡大富町字船久保と呼ばれるようになった。明治42年、藤沢町外二か村(六会村、大正村)連合耕地組合が発足し、水田、河川の整理が進んだ』とあり、『大正13年に木造堰が完成し、奥田堰と命名され、耕地の農業用水として利用された。住民には色々な恵を与え、時には禍をもたらし日々生活を共にして来た』

『昭和20年、敗戦により食糧が不足し、29年食糧増産のため県が母体となって河川改修が行われ、愛知用水を見本としてコンクリート鉄製の永久堰に生まれた。しかし時代の変化により各耕地の区画整理が進み宅地化され、同35年頃には用水としての使命を終え、耕地は現在の市街地となった。昭和58年、奥田堰はえんせき橋に変わった』

 奥田堰碑には赤門住職の吉川晴彦の書「齋禍許恵境川」となんとか読める句がある。かって暴れ川で禍をもたらした境川であったが、その禍が清められ恵の川となることが約束された」という意味であろうか。昔のような大洪水はなくなったであろうが、宅地化、コンクリート化によって大雨が降ると境川への排水が困難となり、船玉神社や遊行寺赤橋付近は冠水するとのことである。                          (914