寄り道・道草 48 |
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遊行寺の東門(戸塚・茅ヶ崎30号線沿い)を入ると左手に「敵御方供養塔」という国指定の史跡がある。教育委員会の案内板などによると、「室町時代はじめの応永23年(1416)に上杉氏憲(禅秀)が、鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起した。(禅秀の乱) 幕府は持氏を援助したため、氏憲は敗れ去った。この乱によって双方に死傷者が多く出た。遊行十五世尊恵上人が一山の僧と近在の人たちを集めて、敵味方両軍の傷ついた人たちの治療を行うとともに、戦没者を葬り敵味方の区別なく平等な供養塔を建立してその霊を弔いた。 禅秀の乱とはなにか、日本史広辞典(山川出版社)によると「上杉氏憲は1411年、関東管領、上総・武蔵両国の守護。犬懸(いぬかけ)上杉氏。入道して禅秀。1415年鎌倉公方足利持氏が犬懸上杉氏を没収する事件が起き、これを不満とし管領を辞職する。さらに持氏が山内上杉憲基を後任としたため、持氏、憲基に対する反感を強めた。1416年、同じ反持氏の足利満隆を擁して持氏らを鎌倉から追い出し、一旦は政権奪取に成功。しかし幕府が持氏を支持して越後、駿河などの軍勢を派遣したため次第に圧迫され、1117年、満隆とともに自害した」とある。 足利持氏と遊行寺の関係、どこかで聞いたはずだ。そうだ「小栗判官と照手姫の話し」(寄り道・道草4)で書いたが、応永30年(1423)、小栗満重(常陸国、小栗一四代城主)は、足利持氏に謀反を起して攻められ、家来十人とともに落ちのびる途中、藤沢の横山大膳の舘で毒を盛られるが、照手姫の機転で満重は遊行寺に逃れ遊行上人に助けられるという話を書いた。 この話の半分は伝説ではあるが、上杉氏憲(禅秀)の話しと重ねあわせ、遊行上人の慈悲深さを示すものとみることができる。しかし単にそれだけのことであろうか。 日本には敵味方をともに供養するという考えは昔からあった。もともと仏教には「怨親平等」という考えがあって、中世以降、勝利した武将は敵味方の戦死者のために大施餓鬼を催し、敵味方供養塔を建てる慣わしがあった。最も大規模なものは、元寇(蒙古襲来)、文永・弘安の役で戦死した敵味方の供養のために執権北条時宗が建立した円覚寺である。 もしこの仏教思想が脈々と続いているならば、靖国問題も起きなかったのではないかと思うのだが、このホームページでは政治的な問題には触れないことととしているので、筆をおきます。 (4・21 八柳) |
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