寄り道・道草59 |
イヤーラウンド大庭城址コース、引地川橋付近、引地川右岸沿いに柏山稲荷神社がある。一度は立ち寄った方もおられると思う。 「柏山公園と柏山稲荷」は、わがまち ふじさわの景観、明治地区景観10選に選ばれている。公園、稲荷、池の3つの要素がある景観で、訪れた人を癒してくれる場所であるとの説明である。赤い鳥居は鮮やかだが、池の水は淀んでいるせいか、ウォーカーは通り過ぎているようだ。 調べてみると、昭和10年、神奈川県名勝史跡45佳選に選ばれている。当時は池の水もきれいであったであろう。また当時の選定基準、人々の目も違っていたということであろうか。 45選は、神奈川貿易新報社(神奈川新聞の前身)が創立45周年記念事業として、読者による投票により選定したものであった。趣意は地元では有名であるけれど、一般には知られていない名勝・史跡を新しく発掘し選定しようというものであった。 1位は愛甲郡半原の石小屋、藤沢では14位の金砂山子育観音と35位の柏山稲荷神社の2ヵ所だけである。ベスト45を見ても殆ど知らない所が多い。多分に地元の人の想いの組織票によるものであったかもしれない。 さて、柏山稲荷神社、宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)を祭神とし、創立は保元元年(1158)、大庭城主大庭三郎景親が城の守りのため、引地川をせき止めて水門をつくり、水門の護り神として勧請したのが始まりとされているという。 また境内には、厳島千人力弁天社が祀られている。「女の人だけで、社殿を建てよ」 という龍神様のお告げがあり、女人千人をもって社殿を建築したとされる。 また伝説によれば、この弁天社も大庭景親が厳島神社の分霊を勧請したという。 なぜ、大庭景親が厳島神社の分霊を勧請したのでしょうか。以下、私の勝手な想像です。 1158年頃の時代背景。1156(保元の乱)、後白河天皇と崇徳上皇が皇位継承をめぐって対立がありました。この争いから武士が次第に政治への発言力を増していきます。源氏と平氏の対立が深まり、1159(平治の乱)で平清盛が源義朝を破り、平氏が有力な勢力となっていきました。 平清盛は1146年、安芸守に任ぜられています。父の事業を受けて継いで、高野山大塔の再建を進めていましたが1156年、落慶法要のとき高野山の高僧から「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば必ずや位階を極めるであろう」と聞く。 平治の乱後、平清盛が源頼朝を破り勢力を得るや、厳島神社を寝殿造りの様式を造営しました。おそらく大庭景親もこの事を聞き、社殿を造営し位階を極めたいと思い厳島神社の分霊を勧請したのではないでしょうか。 厳島神社の祭神を調べてみるとは宗像三女神(市(いつ)杵島(きしま)姫命、田(た)心(ごり)姫命、湍津(たぎつ)姫命)、市杵島姫命は神仏習合時代に弁財天と習合しています。こんな事で、女だけで社殿を 建築したのでないでしょうか。これも私の勝手な想像です。一度、地元の方に伺ってみたいと思います。(八柳) 参考資料: 「藤沢史跡めぐり」藤沢文庫刊行会編 「藤沢市文化財ハイキングコース」藤沢市教育委員会 「新しい歴史教科書」扶桑社 厳島神社HP |