寄り道・道草63
ビーチバレー発祥の地  
首なし地蔵 禁  制 (きんぜい)
YR大庭城址コース、亀井野に雲昌寺という曹洞宗の古刹がある。例会でもしばしば通る所です。風格のある山門には葵の紋が刻まれている。門前の藤沢市が建てた案内板にはこう書かれている。「本尊は如意輪観音で、開基は道済(北条義時)です。創立は建保年間(1213〜19)頃で、もとは今田にあり瑞龍寺と号した。慶長元年(1596)災害に遭い、その頃住職宗順により亀井野に移り、寺号を雲昌寺と改めました。慶安元年(1648)徳川幕府より朱印九石を賜った」とある。
山門を入ると左手に二十三夜塔や庚申供養塔、その前に首のないお地蔵さん七体が並んでいる。なぜ、首が切られたのであろうか。
徳川幕府から御朱印を賜ったということで、本堂の棟などに葵の紋が見られる。

天正18年(1590)4月、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めのとき関東の主要な地域に「禁制」を出している。藤沢では今田、亀井野、村岡、江ノ島などに出されており、ここ雲昌寺にはその「禁制」が保存されているという。「禁制(きんぜい)」とは、支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事項を周知させるために作成した文書である。のち木板に書かれ高札場に掲げられた。

秀吉の出した禁制は三ヵ条からなっている。解説書によるとその内容は、一、軍勢である兵士、従者が乱暴や狼藉をなす事 一、放火する事 一、庶民や百姓に対し、無理不当な事を要求する事 これに違犯した者は直ちに厳罰に処する。というものである。これは戦場となる村人に対しての宣撫工作、人々を安心させることにあったとされる。禁制が出された3か月後、北条氏は滅亡し、徳川家康が関東に入ると、藤沢の諸村は徳川の直轄領、旗本領となった。

禁制のオリジナルを一度見たいものだと思っていたが、一人歩きの際、図々しくもご住職の奥さんにお願いして見せていただいた。禁制は本堂内に額に入れて掲げてあった。400年以上もの文書とは思われない保存状態であった。
首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打うちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったという話を大祖母からの聞いたとのことであった。今、そのお地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵がある。(八柳)
参考資料:藤沢市HP「六会地区の紹介」 日本史広辞典(山川出版)