寄り道・道草64
ビーチバレー発祥の地  
佐波神社
YR大庭城址コース、日大の方面からの坂道を下り、秋本橋を渡って竹林を上って行くと右手に鬱蒼とした森の中に佐波神社がある。
鎮守の森だけあって巨木が多い。社殿向かって右脇に立つ大木のスタジイは幹回り3.68m、スタジイの幹の太さでは市内第3位である。1位と2位は個人宅敷地内にあるので、一般に見られるものとしては最大である。社殿前広場の右手建物裏のヤブツバキの幹回りは1.71m、ツバキは樹齢の割には太くならない木なそうで、これだけの太さの木は市内では稀なそうだ。常緑樹ではシロダモ(幹回り2.17m)、アラカシ(1.89m)、ヒイラギ(102m)落葉樹ではヤマザクラ(2.29m)がある。以上、いずれも「藤沢の文化財(樹木)」である。指定されていないが、社殿に向かって左側の梅も季節に訪れるとよい。

さて、藤沢市が建てた案内板に、佐波神社について、こう記されている。「祭神は源義朝公で例祭日は9月17日、一説によると戦国時代末期石川に勢力のあった石川六人衆によって勧請されたと伝えられます。社名については初め左馬殿神社、次に鯖神社と称しましたが、水害にあったとき再度、佐波神社と改めました」。
社名の変更に見られるごとく、境川流域には左馬、鯖、左婆、佐波、「サバ」と発音する神社が12社もあり、源義朝(左馬頭さまのかみ)を祀っているのが9社、源満仲を祀っているのが3社あるという。
また、古来から七社(どの社を指すものかは分らないが)、さば神社を参拝し息災を祈る「七さば巡り」という風習があり、ウォーキングの例会でもそのようなタイトルがあった。
なぜ、祭神を源義朝とするのであろうか。源義朝(1123〜60)は、頼朝、義経の父、通称左馬頭(さまのかみ)である。義朝は鎌倉を本拠に勢力を拡大し在地武士を組織化、1153年に上洛し下野守。1156年保元の乱で後白河法皇天皇方に味方し、父為義以下多くの源氏を殺した。その功により従五位左馬頭となったが、平清盛の勢威を不満として1159年平治の乱を起こし失敗、尾張で殺された人物である。

案内板にある戦国末期の石川六人衆とは入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏である。六人衆がなぜ義朝を祭神としたのかは分らない。頼朝が鎌倉に居ったころ、この地域に特別な崇敬の対象となるような影響力があり、それが代々伝わったからであろうか。佐波神社の創立は慶長16年(1611)である。500年もの前の人の威光がこの地域に続いていた理由はなんであったか。全国的に見て義朝を祭神とする神社は無いようだから、なおのこと不思議である。また義朝左馬頭を祭神とするなら、左馬神社でよい筈なのだが、なぜ左馬以外の名にしたのか。謎だらけである。 (八柳修之)

参考資料:「藤沢史跡めぐり」藤沢文庫刊行会 「藤沢の文化財 樹木を訪ねて」藤沢教育委員会  「日本史広辞典」山川出版社