連載


宮前平―長津田
池 内 淑 皓
 今日は田園都市線宮前平駅北口前から歩きます。改札口を出てすぐ田園都市線のガードをくぐり、南へ急な坂道を上る、この坂を小台坂と言う。十分程で上りきると「小台公園入り口」と表示のある信号機付T字路に出るからこの角を右折する。昔はここに大山道の道標があったがなくなってしまった。
 道なりに直進すると田園都市線鷺沼駅前にさしかかる。東急ストアー前、みずほ銀行横の路地を左折し急な坂を下る、この坂を八幡坂と言う。明治頃までは道端に八幡さまがあったと言うが、今は見あたらない。
 坂を下ること300m程で国道246号バイパスにぶつかり道が途切れてしまう。この道際に元禄時代からの石地蔵があったが、最近ここに自動車修理工場が出来たため、敷地の外れに追いやられ寂しく立っている。
昔、有馬村に疫病がはやり、多くの幼い命が奪われた。幼子供養のため街道の辻に建てたと言う。地蔵には元禄元年12月15日(1688)施主持田十右衛門 母 と読める。

 大山街道は国道を横切る。ここから先街道は宅地開発で消滅しているので道路図上では分かりにくい。今は暗渠となってしまった有馬川を跨ぎ、住宅街を縫うように西へ西へと道をとりながら、有馬8丁目、有馬9丁目13-2までゆるやかに坂を上って行く。(有馬7丁目方向には行かない)
住宅街を抜けて、分水嶺となっている牛久保の境を西に向かう。皆川造園の中の道をT字路に突き当たるまで歩き(あゆみが丘10)、左折しゆるやかに坂道を下る。左側は皆川造園の敷地、右側は新興住宅地のあゆみが丘。十年前にはこのあたり一帯眺望が良く富士山、大山、丹沢山塊が目の前にせまって見えたが今は分譲住宅が建ち始めて視界が遮られてしまった。
牢場の「不動尊」
 街道は焼き肉屋ベッタコ亭前、バスの通る県道202号線に出る。県道を横切り、市営地下鉄線路を潜り、坂(うとう坂)を下ると左手に一筋の小さな滝が流れている牢場の「不動堂」に出る。江戸時代旅人はこの滝の水で渇いたのどを潤し、埃まみれの汗を拭いたという。今でも水はきれいであるが、滝の上流に家が建て込んでしまった。いつまで水脈が保っていられるか心もとない気持ちがする。滝壺の横には明和年間(1764)に安置した不動像が立っている。宮前平駅からここまで道を間違えなければ、1時間位で到達出来るだろう。

 目の前を流れる早渕川を「かじはし」で渡ると、人馬継たて宿の
「荏田宿」(えだじゅく)に着く。江戸を早朝に出立すれば、第一の宿は荏田宿であったと言う。天保2年(1831)9月渡辺崋山(登)は三河國田原藩主から浦賀海防視察を命ぜられ、出張の途次ここの旅籠「枡屋」(現徳江氏宅)に宿泊している。
 崋山は海防視察と言う目的の他に、藩主三宅康友公の側室「お銀さま」の消息を訪ねる旅でもあった。お銀さまは、友信を生んだあと厚木の実家に返された。友信公は天保2年康保(やすよし)をもうけ、康保は田原藩十五代藩主となって明治を迎えた。
荏田宿の常夜灯
 荏田宿は下宿の寛政5年(1793)建立の庚申塔から始まる。宿場は下宿、中宿、上宿に分かれ、文化年間(1804〜1830)には戸数162軒、往還に軒を連ねる者24軒であった。
明治27年の大火で当時の面影は失われた。わずかに中宿の小泉さん宅の敷地内にある文久元年(1861)の
常夜灯残っている。小泉伝次郎が自分の家の前に大山、富士講のしるべとして建立した。(市文化財)
 
 
荏田真福寺
宿場の中央T字路を左に折れ、郵便局の裏手高台に寛政元年(1789)建立の真福寺観音堂がある。近世の後期に作られた本格的な密教の本堂と言われている。寺宝の木造り釈迦如来像は、鎌倉時代の清涼寺式釈迦如来立像と呼ばれる仏像で、国指定重要文化財。また、同寺の本尊で千手観音立像は、平安時代の作とされ県の文化財に指定されている。いずれも寺の収蔵庫に保管されている。
 宿場は国道246号で分断されてしまったが、国道を横切ってセブンイレブンの角を左折すれば宿場を外れる。直進する事250mで国道と一緒になり、更に200m先の出光ガソリンスタンド前で国道と別れ、右に道を取る。東名高速道路を潜ると寛保元年(1751)に「施主椿喜左右衛門佐田村」と彫られた地蔵堂がある。他に2体あるが老朽化が激しく判読がむつかしい。
 田園都市線の荏田駅は目の前である。ここまで宮前平駅から2時間あれば充分だろう。荏田宿の真福寺をゆっくり見学すれば、もう少し時間がかかる。

統譽上人千日地蔵堂
 街道は駅前のロータリーを抜けて、焼き肉屋の裏手を線路沿いに西に向かう、1km程で市が尾の千日地蔵堂に出る。このお堂には統譽上人の墓碑がある。宝暦元年(1751)市が尾に疫病が蔓延したとき、村人達のために上人が身代わりとなってこの地で入定(ニュウジョウ尊師が死にむかう事)したと言う。
 地蔵堂の裏手に市ケ尾小学校があり、この小学校の正門前、谷本川左岸斜面段丘に
横穴古墳群がある。6世紀から7世紀にかけて築造された墓群で20基の横穴が発掘された。出土品には直刀、鉄族、管玉、腕飾り等があり古代有力者の家族墓と推測され、前庭部、羨道(エンドウ)、玄室から成り立つ立派な墓群で、市史跡となっている。
 更にここから先上市が尾交差点から日野往還を右に800m程歩くと、右手に
稲荷前古墳群(県指定史跡)がある。ここには前方後円墳、円墳、方墳等があり古墳の博物館と呼ばれている。4世紀後半、古代都筑の首長層が弥生時代の方形周溝墓から、近畿地方に出現した前方後円墳の影響を受けて築いていると言われている。さらに荏田には郡衛(ぐんが)と推定される長者原遺跡が発見されていることからして、このあたり一帯が古代都筑の中心地であったのではないかと考えられている。矢倉沢往還は古代からこれらの国々を結ぶ主要な街道になっていたに違いない。
旅人宿の「綿屋」
 上市が尾交差点左手に旅人宿の「綿屋」が現存している。出梁と桁に当時の面影が残っている。

道はやがて川間橋で鶴見川を越える。400m程坂を上り詰めると(大門坂と言う)医薬神社が見えてくる。めずらしい名前であるが祭神は大国主命と少名毘古那神で、江戸時代は真言宗の東光寺であったが、明治の初め廃寺となって同じ敷地内に合併された。
 医薬神社前の信号機で左折して200m程行くと、ミニゴルフ場に突き当たるから、ゴルフ場沿いに道を取る。ゆるやかに坂を下りきると、田園都市線と国道246号線が高架で交差する地点に突き当たるので、ここから国道を歩く。(田園都市線青葉台駅へは線路沿いに歩いて200m)排気ガスの中を1km歩くと、しらとり台の信号に出る。本来なら大山街道はここで右折するが、道が分断されてしまったので、そのまま国道を西に向かう。(旧街道にこだわる人のために道を記述しておくと、信号機を右折してすぐ左折するとラブホテルがある。ホテルの前が恩田の富士塚と
下り大山道道標
言い、文化、文政期に富士講の連中が塚を築いたと言う。見晴らしが良く富士山が間近に見える。(平成17年10月歩いたときはマンションに変わっていた)道は急坂を下る。(石搭坂)下りきって左折する。やがて国道246号にぶつかり分断されるから国道沿いに歩く。この辻に道標がある。下り大山道、上り江戸道。坂道の角にあったことがよく分かる。)

 大山街道は恩田川を大橋で渡ると緑区長津田第一歩道橋交差点に出る。国道から離れて右斜めに道を取り、JR横浜線のガードをくぐるとやがて
長津田宿に入る。荏田宿から二里、4kmの距離である。
宿場の説明は次号に譲って、今日はこの辺で帰ろう。
横浜線長津田駅に行くには、街道をまっすぐ500m歩いて、長津田駅南口入り口の信号を右に曲がれば良い。