連載


長津田―鶴間

池 内 淑 皓
 今回は長津田宿から歩きます。JR横浜線の長津田駅南口改札を出て、100m歩くと矢倉沢往還大山道が東西に走っている。交差点を左折して400m程で常夜灯が数基並ぶY字路に出るので、ここが長津田上宿、宿場はここから始まる。
長津田常夜灯

 長津田宿は恩田川南岸の台地上に形成されていて、古くから街道が通じていた。江戸時代には大山詣の人々の往来、宿泊で大いに賑わい、家数160軒、人馬継立ての中心地であった。江戸から七里半、荏田宿から二里、次の鶴間宿へは一里十町の道程である。渡辺崋山もここのたばこ屋万屋藤七宅に立ち寄っている。
昭和二十九年四月大火により長津田宿は灰燼に帰した。わずかに宿入り口と出口に常夜灯が数基残っているだけである。江戸方の常夜灯は天保十四年(1843)宿内の秋葉山講中が建立した。

今はにぎやかな商店街となってしまった街道の中程、長津田郵便局横の角を左折して200m程坂道を下ると曹洞宗大林に出る。大林寺は幕府旗本岡野氏の菩提寺である。
 岡野氏は始め「板部岡」と称して北条氏に仕えたが、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、豊臣家に仕え太閤の命で「岡野」を称した。関ヶ原の合戦では徳川方につき、秀忠の陣中で功を挙げた。天正十九年(1595)旗本に取り立てられ1500石取りとなり、代々長津田の領主となって明治を迎えるまでこの地を知行した。
長津田岡野家墓所
平成四年十月直系の死を以て277年続いた岡野家は終焉した。
四代房勝は幕府盗賊追捕役となり、天和三年三月(1683)数えで16才の八百屋お七を鈴が森の刑場で火あぶりの刑に処した。その時の火あぶり土台石が鈴ヶ森刑場址に残っている。この石には鉄の丸棒を通すために丸い穴があいている。ちなみに磔石は角材を通すために四角く穴があいている。白井権八はここで磔にされた。
岡野家累代の墓は大林寺の墓域の中程にある(市史跡)寺は3度の火災にあい寺宝、記録類を失った。(平成17年10月本堂、庫裏共に解体再建中)

 さて元の道に戻ろう、宿場はこの先200m程で終わる。にぎやかな長津田の町を外れると、ゆるやかな坂を上り詰め、大石神社の鳥居前に出ると長津田宿は終わる、神社参道の途中に下宿の常夜灯がある。天保十四年(1843)大林寺寄進と読める。社は在原業平を祀り元禄七年岡部房恒と三代成明が社殿を修復している。
鶴間宿
 大山街道はやがて国道246号に合流し国道を行く。田園都市線のすずかけ台駅前を通りやがて国道16号線との立体交差点に出るから、側道を歩く。「東名入り口」の信号を直進すると鶴間宿に入る。鶴間の名の起こりは、鎌倉時代このあたり一帯に鶴がたくさん舞っていたので「鶴舞の里」と呼んだことが始まりと言う(説がある)
このあたり一帯は大ケ谷戸(おおがいと)といって坂のかけあがりに宿場があった。
宿の中程に円成寺と言う浄土真宗のお寺がある。平成五年歩いた時は風情のある庵であったが今はコンクリート造りの本堂となってしまった。寺は北条氏綱の家臣山中貞信が天正年間の開基とされる。本堂の聖徳太子立像は室町後期の作で、町田市の文化財となっている。大ヶ谷戸バス亭の前に立派な庚申塔がある。文久三年鶴間宿と読める。

鶴間宿
 街道は500m程で目黒交差点前に出るから右に折れ、境川(武蔵国と相模国の境)を鶴間橋で渡りすぐコンビニの前を左折すると下鶴間宿に入る。道幅は四間で今も昔と同じ広さになっている。
長津田駅を降りてからここまで約6km、大林寺に立ち寄っても2時間あれば充分だろう。先ほどの目黒交差点脇に大山街道の道標がきちんと整備されて在る。「天下泰平五穀成就」、「右大山道」、「左江戸道」、安政三年丙辰年八月、相州瀬谷村五貫目と陰刻されている。もとは鶴間橋際にあったが道の改修工事で動かされた。
宿の入り口に鶴間山観音寺と言う真言宗の寺がある。開山開基は不明、本堂の木造地蔵菩薩は室町時代の作で町田市文化財となっている。
50m先に大山阿夫利神社分霊社と大書された小さな社がある。大山の先達さんの家でもあるが、敷地内に新田義貞軍鎌倉進撃路と書かれた標柱や説明板がある。碑によれば元弘三年五月八日上野国脇屋で旗揚げして南下、東松山の菅谷の館を通り所沢に出て、府中分倍河原の戦いで北条軍を撃破、鶴間、瀬谷、藤沢を通って鎌倉に入っている。これから先の出来事は皆さんご存知の通りである。

長谷川邸と大山街道
 下鶴間宿はすっかり建て代わり昔の面影は無いが、目黒川に沿って黒塀に囲まれた土蔵が見える。長谷川健太郎氏(現)の屋敷で、江戸時代は鶴間宿の名主で宿場の本陣的な役割も持っていた。明治には乃木大将もここに宿泊している。
また交差点の角には現在整備復元工事中の小倉家住宅がある。唯一残った近世の商家の遺構で昭和二十二年頃は町の商家として繁盛していた、平成七年と同九年に解体されている。
 緩やかに坂道を行くと、土手の右手に不動尊像がポツネンと街道を見下ろしている。寛保3年江戸番町(東京都千代田区)の住人が供養のために作ったと言う。
坂を上り詰めると右手に鶴林寺がある。永禄十二年(1569)にこの宿場の代官瀬沼氏により開基、一族の墓が墓域の中央にある。瀬沼氏は現在でも当地に在住している。
 鶴林寺の先に昔の旅籠「まんじゅうや」土屋家がある。家はすっかり建て代わっているが渡辺崋山は天保二年二月二十一日この旅籠に泊まっている。

滝山街道と大山街道の標柱
 400m程で山王原に出る。原の真中に山王神社があるからこの名が付いた。神社前の交差点は鎌倉時代からつづく滝山街道が交差している。大船玉縄城から藤沢、長後、下鶴間、橋本、御殿峠、八王子、滝山城までの古道で、北条が甲斐の武田に対する守りであった。
 永禄二年(1559)北条氏照は滝山城にいたが、天正十六年(1588)甲州口に近く、守りの堅い要害の地である八王子城(JR高尾駅の北)を築いて移った。しかし2年後の天正十八年豊臣秀吉の小田原征伐で落城した。滝山城址へは、JR八王子駅からバスの便がある。
 滝山街道の交差点には「右大山みち」、「左ふじさわみち」 と書かれた道標がある。その隣に笠付庚申塔があるが碑面にいたずらされたため文字は読めない。
 山王原を過ぎた大山街道は、700mほどで小田急江ノ島線の鶴間駅前に出る。鶴間宿入り口からここまで小一時間位だろう。区切りが良いので今日はここまでにしよう。