連載

矢倉澤往還 大山街道を歩く(連載7)
鶴間―海老名

池 内 淑 皓
 今日は小田急江ノ島線の鶴間駅前から歩きます。
改札を出て、踏切の前が矢倉沢往還大山街道です。西(右)へ道をたどる。信号で西鶴間二丁目、四丁目、五丁目、八丁目まで行くと右手に日蓮宗の西鶴寺が見えてくる。門前に大和市役所が立てた新しい大山道の道しるべがある。
街道は右折して寺の前の道を行く。500m行くと国道246号で分断されてしまうから、右手にある信号を渡って再び大山街道に戻る(横山建設角)。道は次第ににぎやかになり、やがて相鉄線さがみの駅前の踏切を渡る。
1km程歩くと本町の交差点に出る。この左角、隅に庚申塔らしき石標があるが石が風化して文字が判読出来ない。

 交差点を横断してゆるやかに坂を上り、300m程で左側にパン屋さんのあるT字路(海老名市柏ヶ谷1072の電柱)を右折すると10m左側に「大塚」があった。鎌倉時代戦死者を埋葬したと言う大塚は次第に小さくなり、昨年11月訪ねたときは整地され、植木さん宅の敷地の一部になってしまった。(平成7年2月には大塚が残っていた)今や名前だけが相鉄線の「さがみ大塚駅」の名で残るのみとなった。鶴間駅前からここまで小一時間程の距離であろう。

 大塚から大山街道はゆるやかな下り坂となって赤坂のバス停留所に至る。この角に不動明王が乗る大山街道の道しるべがある。正面は石が劣化して字が読めず(百万遍供養□□)、側面は左江戸道 、神奈川道、柏谷村 宝暦六丙子十一月□日{相模大山街道 大山阿夫利神社刊による}道標の風化が激しく江戸道の文字が読めなくなるのは時間の問題だ。
さらに歩を進めると望地と言う場所で左から旧246号線が合流する。

 さてここで少し大山街道を外れることをお許し頂きたい。
お銀様の墓

本稿「宮前平―長津田」で少し記述したが、渡辺崋山が三河国田原藩主の命令で浦賀の海防視察出張を命ぜられた他に、田原藩御側室系譜作成のため、三宅康友公の側室「お銀さま」の消息を訪ねる旅でもあった。この道中記が天保二年「游相日記」として世に出たが、原本は焼失してしまった。複製本が300部作成されており、そのうちの16号が横浜市立図書館にある。
 お銀さまの実家は大川家でこの望地から近い小園村(現綾瀬市)にある。折角だから私たちもお銀さまのお墓にお参りしてこよう。
望地の交差点から旧246号を10m戻り、ひらた薬局前の路地を右折する。(バス道路)バス停で小園、延命地蔵堂(東光山延命寺、相模国分寺の隠居寺で、本尊は地蔵菩薩座像で室町後期の作、また隣には涅槃の般若釈迦如来像があり、これは江戸時代の作)を過ぎ新橋バス停から20m戻ると、伊沢家住宅の裏手高台に大川家の墓域がある。その中に「お銀さまの墓」と標識が見え、墓石には「皈元開外全修大姉」文久2年11月15日と読める。
私が訪ねた時には可憐な野菊が飾られてあった。大川家は清貧な農家であったと言う。
望地からお銀様のお墓まで往復30分位みておきたい。
 小園村やこれから通る国分は佐倉藩堀田氏の領地で、徳川家定の時堀田正睦(まさよし)は老中職を勤めている。

 
大山街道に戻ろう。望地の交差点から西(右)へ道をたどり、200mで目久尻川を渡る。江戸時代の橋は「石橋」で宝暦七年(1757)国分村で伊豆石を用いて架けた。当時の石の一つがこの先のY字路に「史跡逆川の碑」と共に陳列されている。
史跡逆川のいわれは、碑文によると、大化の改新(645)で海老名耕地の潅漑用と運送用に掘られた運河で全長2.5km。目久尻川を堰止めて分水し、この地点で西北方向に流した。丁度川とは逆の流れ方をしていたので逆川の名が生まれた。かつての船着き場は日本最古の運河として平安中期まで利用されていたと言う。現在は全て埋め立てられて運河の遺構はほとんど見られないが、国分寺の裏手バス通りに「逆川」のバス停
相模國国分寺址
としてその名が残っている。

 道はY字路を左手にとりゆるやかに坂を上る。200mで交差点を過ぎると海老名市の郷土資料館「温故館」がある。この後方一帯は相模国、国分寺址である。温故館は国分寺、国分尼寺等の資料を展示している。尼寺へは温故館うしろの交差点を左折(北)し相鉄線踏切を渡った左手の公園内にあるが、規模は小さい。
 逆川の遺構を訪ねるには、交差点から50m行くと右カーブの曲がり端に電柱で国分南1丁目13の表示のある狭い路地を入る。この道が逆川の址であると言う。{温故館学芸員談}200m程で行き止まりになるが、ここらあたりにかすかにかつての遺構らしき痕跡が残されている(海老名市のいろはかるたの標識がある)。

 天平十三年(741)聖武天皇は国家鎮護のため諸国に国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立させた。少し高台の海老名の地に建てられた僧寺は奈良法隆寺式の堂塔伽藍を配置し、金堂、講堂、七重塔を囲むように回廊が廻らされ、まばゆいばかりの堂宇が立ち並んでいた。
 尼寺は奈良時代の大安寺様式で規模は僧寺より少し小さい。相模国府政庁は当時尼寺の北、上今泉あたりにあったと言う。また河原口の有賀神社の近くにあったとも言う。今はそれらの全てを失い、当時の面影を残す礎石が37個寂しく点在している。こあたり一帯は国指定の史跡となっている。
尚、七重の塔1/3スケール復元模型が海老名駅前の中央公園にシンボルモニュメントとして建立されている。
 また温故館の道を挟んだ反対側の高台に国分寺薬師院がある。天平時代に築かれたこの寺は、再三の戦禍に巻き込まれ、戦国時代ここに移転した。国分僧寺の法灯を今に引き継いでいる。そして寺には正安五年(1292)海老名氏一族の国分季頼が寄進した国指定重要文化財の梵鐘が残されている。
国分大欅


寺の前の道は、昔の大山街道で、先の温故館前の交差点を左折して国分寺を左廻りのように寺前に出て大欅前に至ると言う。ここには樹齢500年と言う県指定天然記念物「国分の大欅」がある。
 話は戻るが、先ほどの国分尼寺跡の先100mで弥生神社に行く参道があり、弥生神社の裏手には瑞雲山龍峰寺がある。臨済宗鎌倉建長寺派の禅寺で、暦応三年(1340)円光大照禅師によって創建された。
観音堂に収められている木造り千手観音立像(鎌倉時代)は国指定の重要文化財で、毎年元日のみ拝観する事ができる。

 さて、矢倉沢往還大山街道を歩こう。道は大欅の前から西へ街道随一賑やかな海老名駅前を抜けて、小田急線を跨線橋で越え、JR相模線の踏切を渡り、河原口信号の先で直角に左折するまでの1.8kmは一直線の道である(旧国道246号線)。
神奈川県広域道路図(人文社刊)又は国土地理院発行の1/25000地形図を見て頂きたい。

更に詳細に調べるのであれば、明治前期関東平野地誌図集成(戸塚図書館蔵(柏書房刊))を見ていただきたい。このあたりは碁盤目のように田、畑、道路がきちんと区分されている。ここには、はるか奈良時代の条里制が色濃く残っている。
 大化の改新(645)によりそれまで豪族が支配していた土地が、天皇を中心とした中央官人による支配体制に変わった。同時に国郡里制が実施され、各国には国衙が置かれ、国司が任命された。
今歩いてきた道は一大縄(イチオオナ)で、この道を基準に六町(654m)間隔で縦横に区切り、六町間隔の列を条、六町平方の一区画を里と呼び、一里は更に一町間隔で縦横に区切って合計36の坪とした。

 大山街道は旧国道246号線が直角に曲がる所まで一緒であるが、曲がり角にあるコンビニの裏手を行く。道標は向かいのガソリンスタンドの電柱の陰にある。右江戸道、左大山道と読めるが風化が激しい。この石はコンビニの角にあった。
50m程で“ セザール厚木マンション” のT字路を右折する。やがて河原口児童館が左手に見えてくる。児童館前のT字路を左折する。児童館の敷地沿いに歩くと20mでまたT字路になる。この角に庚申塔がある。「右大山 此方江戸道」と陰刻された道しるべとなっている。ここを右折し更に100m程行くと、右から斜めの道が合流するT字路に出るから今度は左折する。更に100m先で“かおる美容室”前のT字路を右折する。道はまっすぐ100m程で相模川にぶつかり船渡しとなる。かおる美容室前にあった道標がこの道の途中丸山氏宅の敷地角にある。「右大山、飯山、厚木、道」と読める。
河原口有賀神社

先程のコンビニから相模川にぶつかるまで交差点は全て「T」字路道であった。なぜだろうか。
 江戸時代街道は旅人が道に迷わないようにわざと十字路を作らないでT字路にした。
どうしても交差しなければならない場合は、筋違いで道を交差させている。従って道標で右、左と彫りつけてあるのはこの理由による。
この良い例として連載6の下鶴間宿から山王原の交差点を考察してみよう。
 ここは鎌倉北条氏が八王子の滝山城に行くための滝山街道が交差している。矢倉沢往還大山街道が古く、新しい滝山街道が筋違いに道を通して北に向かっているのがよく分かる。
海老名市一帯は国分寺跡も、条理制跡も、T字路道も、昔がきちんと残されていたのだ。

 先ほ
どのガソリンスタンド前を右折して300m行くと有賀神社がある。この神社は、天智天皇三年(664)には官社として国家的な祭礼を行っているから相当古い。室町時代の永徳元年(1381)には正一位となった。二度の兵乱により灰燼に帰し社殿は衰えたが、徳川家康から朱印十石の寄進を受け再建された。本殿等は市の文化財。

 ここでもう一つ記述しなければならないのは、海老名と言う名の起こりである。
海老名氏霊堂

海老名氏は武蔵七党の一つ横山党(八王子)の流れで、村上天皇を祖とする源氏系と言われている。相模国は鎌倉幕府の直轄支配が行われていたので、国衙領と荘園の区別が曖昧であった。康平年間(1058〜1064)源四郎親季が相模守となってこの地に在任し、そのまま在名によって海老名氏と称し棟梁となった。孫の海老名季定は保元物語、蘇我物語にも出てくる武勇に優れた名将であったと言う。
海老名氏の館跡は、有賀小学校の南から先のガソリンスタンドの裏側一帯と言われている。また海老名氏のお墓は有賀神社の南、有賀幼稚園の横手に小さな霊堂として残っている。

 ここで相模川を越えるのであるが、今日はこの辺りで帰ろう。望地から一気に歩けば小一時間で川畔に達するが、史跡を訪ねながら歩けばたっぷり一日かかる。帰路は先の河原口から海老名駅までバスの便がある。