連載
矢倉沢往還大山街道を歩く(8)
厚木―愛甲石田

池 内 淑 皓
厚木の渡し跡
 今日は厚木宿入り口「厚木の渡し跡」の碑から歩きます。
小田急線本厚木駅改札を出て、北口方面のロータリーに出ます。バスで行くならD番乗り場から宮の里、宮ヶ瀬方面行に乗車して、厚木東町バス停で降ります(10分位)
歩いても15分位で厚木の渡し跡の碑まで行ける。
行き方は、ロータリー前の厚木なかちょう大通りを東へ歩き、厚木駅西口交差点信号を左折して県道603号線に出る。250m程で中町の交差点を右折し、更にその先の東町郵便局前の交差点を左折する。
5分程北へ歩くと厚木東町のバス停前を通り、厚木の渡し跡の碑の前に出る。
厚木宿 厚木渡船場(新編風土記稿)
 矢倉沢往還大山街道は、対岸の河原口から夏は船渡しで相模川、中津川、鮎川を越えて厚木側の土手を登る、冬は川に仮橋が設けられた。渡船料の半分は厚木の豪商溝呂木家の収入となった。溝呂木家は現在東町7で厚木塗装有限会社を営んでおられる。
平成三年三月厚木市教育委員会が設置した市指定史跡「旧厚木村渡船場跡」の説明板と昭和三十六年に建立された「渡辺崋山来遊記念碑」がある。
 相模川を越えれば愛甲郡となる。愛甲とは鮎川に由来する。厚木宿は、江戸から十三里、戸数三百三十、南北半里の長さ、東から矢倉沢往還、西から信州萩野甲州道、北から南へ八王子平塚道、そして相模川を河口まで千石船が行き来する交通の要衝の地として、また物資の集積地として矢倉沢往還では最も繁栄した宿駅であった。大山道は上宿から相模川に沿ってゆっくりと南下する。新しく相模川に架かったあゆみ橋西入り口の交差点を過ぎ、先程の厚木東田郵便局交差点を渡ると左手に厚木神社(厚木稲荷)が見えてくる。社伝によれば、社は安永六年(1777)牛頭天王社別当智恩寺住持法院高観が京都伏見稲荷社の分社をここに勧請して、この地を天王町と呼び講中を結成して祭祀した。慶応三年厚木の大火で焼失、明治に入って再建された。境内には稲荷神社、水神宮がある。
烏山藩厚木役所跡
 神社の左手、相模川土手際に市指定の史跡「烏山藩厚木役所跡」通称厚木陣屋の碑がある。
碑文によると、{享保三年(1728)下野國烏山藩(栃木県那須郡烏山町(宇都宮から烏山線で終点))城主大久保常春の所領となり、相州領(厚木村、林、下川入、上萩野)支配のため厚木役所が置かれた。以来、明治に至るまで140年間支配し、厚木の経済、文化、治安に関する行政が施かれた}
厚木宿を支配した烏山藩は、仁政を施いたかと言うと決してそうでなく、宿の繁栄を頼みに度々御用金調達の申し付けがあり、圧制を施いたと言う。烏山藩は貧乏藩であった。
陣屋は維新以後町役場、税務署、市役所などに使用され、昭和46年庁舎が移転するまで250年間行政機関の所在地となった。

今は、跡地にマンションが建ち、昔の面影はない。
 神社の二軒隣に厚木ミシン店があった(平成17年12月移転)。天保二年渡辺崋山がこの宿場に二泊して文人墨客らと過ごした旅籠「万年屋」跡である。店前に昭和60年厚木市で建てた「渡辺崋山由縁の地」の標柱がある。
厚木熊野神社
街道を南下しよう。小田急線のガードを潜ると右手に宝安寺、最勝寺を過ぎると、こんもり緑が茂る「熊野神社」の鳥居が見えてくる。この境内にある大銀杏は根本で径3m、樹齢450年の古木で、市の天然記念物となっている。神社の入り口には厚木宿の観光案内板が設置されているから、これから歩く手引としよう。
厚木の渡しからここまで40分位だろうか。
 所々商店のシャッターが閉じられ、今はすっかり過疎の町になってしまったが、大山街道をゆく。下宿バス停そばの鰻屋の路地を入り、突き当ると智恩院がある、境内には鬼子母神を祀る小さなお堂がある(案内板があるが文章省略)。
下宿を抜け300mで大山街道はソニー厚木工場前に出る。昔はここに厚木用水が流れ、桐辺橋が架けられて、相模川の土手には桐が植えられていたと言う。
渡辺崋山は厚木滞在中「厚木六勝」を絵にしている。月夜の晩、ここから見た景色が殊の外美しく「桐堤賞月」(どうていしょうげつ)と言う言葉を残している。そのいわれが交差点角に建立されている。他には、先程の熊野神社の杜を詠んだ「熊林暁鴉」(ゆうりんぎょあ)、相模川の船渡しを詠んだ「仮屋喚渡」(かおくかんと)、仮屋とは仮の屋根で舟渡の時、乗客が船待ちする場所。
 大山街道は旭町四丁目交差点から県道を離れてソニー厚木工場沿いに進む。600m程で岡田一本杉前に出る。現在は杉もなく、欅と銀杏の大木が残り、小さな御獄権現の祠と天保六年の馬頭観音が昔を偲ばせてくれる。
 数分歩くと東名高速道路に突き当たり、その手前に村社三嶋神社がある。額は第五代烏山藩主大久保忠成筆による。また神社入り口には厚木市で建てた矢倉沢往還の石標があり、神社前の道は対岸の社家に向かう「岡田の渡し」への道である。
高速道路をくぐるとすぐに寿永山長徳寺がある。寿永二年(1183)創建との事で由緒は相当古いが建物は新しい。つづけて法徳寺がある、この寺には聖徳太子像があり拝観出来る。
 大山街道はこの先酒井バス停手前のT字路を右折する。この角に不動明王の乗った庚申塔があったが70m先の薬師堂に移されている。正面:庚申供養塔。南:小田原道。北西:大山道。享保十六年六月吉祥日。再建安永七年戌戌九月。10年前には刻文が読めたが、今は表面がはがれ落ちて読めない部分がある。元の場所には訳の分からない五輪塔の欠片や、がらくたが雑多に置いてある。
 薬師堂は別名酒井虎薬師とも言われ、除病安楽を祈願し信仰される薬師如来像がある。南北朝時代の作と推定される寄せ木造りの立像で秘仏である。十二年に一度寅年に開帳する、この時行われる双盤興行は無形文化財であると言うが私はまだ見たことがない。

山角家歴代の墓
 薬師堂の前の道を南に30m行くと法雲寺がある。この寺は酒井を長く領した山角氏が戦国時代の天正年間に再興した氏寺である。来迎山勝長院法雲寺と称し浄土宗。本尊は阿弥陀三尊。木造り不動明王立像は県指定の重要文化財となっている。
 この寺の南側に山角氏累代の墓がある。案内板によると、{山角氏は小田原北条の重臣で軍奉行を勤めていた。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで落城、山角定勝は高野山へ逃れたが、北条氏直は徳川家康の娘督姫と結婚、その仲人が定勝であった事から罪一等減じられた。
家康の天下になると旗本として召し出され、ここ厚木の酒井村、長沼村、平塚八幡村の一部合わせて1200石を領した。慶長八年八十五才で没し、菩提寺と定めた法雲寺に葬られた。その後勝長の代になって伽藍を整備して寺を中興したが、徳川慶喜が大政奉還して駿府へ移住すると、多くの旗本も行動を伴にし、山角氏も酒井の地を去り、墓域のみ形を残す事となった。山角家歴代の墓石は宝篋印塔(写真参照)と呼ばれるもので、鎌倉時代以降主に武家の供養塔として多く見られる}
 さて、大山街道は元の薬師堂前の道に戻って西に進む。県道601号線を横切り、更に国道129号線を横切ると新玉川を新宿橋で渡り、酒井宿に入る。やっと道の両側に畑が点在して田舎らしくなってきた。大山が大きく聳えて見える。小田原・厚木道路をくぐり、500m程で街道は片平に入り、今は暗渠となった旧玉川を渡ると直角に左折する。交差点の角に大山道標を兼ねた庚申塔がある。正面:庚申塔。右:江戸 青山 あつぎ道。 左:大山道。
 円光寺の新しい山門を見るとすぐ愛甲宿信号の交差点に出る。交差点の電柱の影に笠付きの庚申塔があり、江戸時代からこの場所に現存。正面:庚申塔。右:大山道。裏:天明元癸丑歳十月吉祥日 愛甲村。
大山街道は信号を渡り、右に坂を上り、20m先で左に折れると愛甲宿に入ってすぐ小田急線愛甲石田駅前に出る。ホームの先端は伊勢原市の石田宿になる。
愛甲三郎館跡
 今日は歩く区切りが良いのでここで終わりとしよう。時間があれば愛甲三郎館跡を訪ねてみたい。三郎の墓は先の円光寺にあり、位牌もあると言う。
館跡へは駅前の国道246号に出て、愛甲宮前の交差点を高森台方面に歩く。東名高速道路を陸橋で越えるとすぐにバス停愛甲橋がある。10m先に森永カルタス店と青木氏宅前の路地を右に入る。30mでT字路に出るから左折してすぐに上愛甲公民館がある。この一帯が(伝)愛甲三郎館跡であると言う。二つの小さな祠と共に館跡の碑が建立されている。
 愛甲三郎季隆は鎌倉時代の弓の名手で、頼朝の家来として重用されていたが、頼朝の側室丹後の局をかくまった事から妻政子の恨みを買い、上愛甲の屋敷を焼き討ちされた。頼朝亡き後、和田義盛の乱で義盛に荷担して北条に滅ぼされた。
愛甲宿では毎年七月に愛甲三郎納涼祭りがある。