連載
矢倉沢往還大山街道を歩く(8)
石田−石倉橋
池 内 淑 皓
 今日は石田宿から歩きます。
小田急線の小田原方面行きに乗車し、愛甲石田駅で下車します。ホームの後ろ半分は愛甲村(海老名市)、前半分は相模国大住郡石田村(伊勢原市)に分かれている。改札を出て、右手(南口側)階段を下りると矢倉沢往還大山街道の石田宿です。駅前ロータリーの傍らに古代環壕遺跡の説明板がある。この辺りは街道筋で最も標高の高い位置にあり、縄文・弥生時代の環壕集落跡が発掘されている。既に本稿{宮前平―長津田(5)}の項で述べた様に、矢倉沢往還は古代集落の拠点を結んで西に向かっているのが良く分かる。江戸時代はここから江ノ島が見えたと言う。

石田為久の墓
 宿場の近くにある石田城跡を訪ねてみよう。駅前のロータリー角にあるコンビニを左折して道なりに直進し坂を下る。フレックススポーツクラブの前に出て、信号機の交差点を右折すると直ぐに円光院のお寺がある(10分位)。このお寺後方一帯の高台が石田城跡で、お寺の裏に石田為景と為久の墓がある(石田城址の表示はない)。石田次郎為久は寿永三年一月(1184)頼朝の命を受けた範頼・義経軍に参陣し、京で乱暴狼藉を働いていた木曽義仲を近江粟津原(瀬田の唐橋近く)で討ち取った武将として名を馳せた。
墓の碑文には「三浦義明次弟為清三子為景子為久ハ當所ニ住シ石田ヲ称ヘ義仲追討ニハ功ヲ挙ゲタルモ史跡全ク湮滅(インメツ)シ終リヲ以テ此ノ碑ヲ建テ供養ス」昭和二十二年三月と刻まれている。この辺り一帯は先の愛甲三郎の館跡と言い、中世の“ツワモノ”達の遺跡が多い。

 元の道に戻って大山街道を歩こう。道は小田急の踏切を渡り、国道246号東京-沼津線に合流する(以降R246と略す)300m程で「道了尊入り口」と表示のある信号機の交差点右手に藁屋根の小さな山門が見える。ここが石田村岩崎家菩提寺の浄心寺で、今でも頑なに藁屋根を守っている。岩崎家は鎌倉時代から続く武将の出である。
 折角だから道了尊にお参りしてこよう。信号機の四つ角を右折して10分程歩くと
高森道了尊
アマダ製作所前に出るから、道なりに歩いて高森七丁目を行き、東名高速道路をくぐると、道の角に昭和三年建立の「高森道了尊入り口」の石標があり、道了尊はこの先右側に鎮座している。
足柄関本にある大雄山最乗寺を開山した了庵慧明禅師が、ここで修行した旧跡地と記されている。了庵は伊勢原市下糟屋で生まれ、鎌倉建長寺で仏門に入り修行した。弟子に道了大薩捶(サッタ)がおり、絶えず了庵を支えたと言う。禅師らは山岳信仰における山伏僧、神通力抜群の満位の行者で、相模坊道了尊者として広く世に知られるようになった。

 大山街道に戻る。R246の交差点まで戻り、西へ道をたどると250m程で「石田」の交差点に出る。左に折れる道は、明治三十五年新しく開削された新道で、平坦な道となっている。(説明は後述する)
 旧道は、交差点を直進するとすぐ日本ロジテック工場が右手に見えてくる。工場の角を右折して更に敷地に沿って左折すると“塚越公園”に入るから、公園脇の急な階段を上ると高森六丁目の住宅地となる。振り向くと右手に小さな東屋があって、丁度良い休憩場所となっている。目の前の大山が一段と大きく聳えて見える。東屋は江戸時代峠の茶屋があったところで、旅人が急坂を上り詰めてここで一休み、わらじを履き替えたと言う。この坂を地割坂と言って、昼尚暗い急坂であった。
当時はここから相模湾と馬入川が見え、矢倉沢往還中屈指の見晴らし良い場所であったと言う。(高森六丁目角の海鉾氏談)ここでゆっくり休むのも、お弁当を広げるのも丁度良い場所だ。

 大山街道は海鉾氏宅前の急坂を下る。やがて小さな十字路に出るから、左折して道なりに歩き、200m程で味ラーメン店と中華料理“桂花楼”の前に出て、R246にぶつかり街道は寸断される。ここには信号機が無いので、50m先の「鳴瀬」の信号で国道を渡り、街道に戻る。今はすっかり住宅地となってしまった道を400m程歩くと、JA伊勢原鳴瀬支所前の交差点に出る。
 さて、先程の新道を記述してみよう。「石田」の交差点を左折してゆるやかにカーブしながらバス通りを行く。小田急の線路を隔てて左側の小高い丘は小金塚古墳である。この丘は古墳時代前期の円墳で、径50m高さ6mの美しい形をしている。出土品の朝顔形埴輪は南関東では最古といわれている。今は頂上に小金神社があり、大正十年昭和天皇が陸軍大演習の時立ち寄った“鶴駕行啓の所”の碑が建っている。古墳への行き方は、バス停「小金塚」前を左折し、新興住宅地の中を丘に向かってゆけば良い(10分程)。

 新道に戻ろう。道の左側は少し畑も残るが、右側は昔“アンネ”の工場があった。今は移転して新興住宅地に変わってしまった。
やがて道は鳴瀬小学校の塀沿いに歩くようになると、先程のJA伊勢原鳴瀬支所前で旧道に合流する。道程は「石田」の信号からおよそ1km程だ。JA鳴瀬支所裏手に新装なった「白金地蔵」が祀られている。平成七年八月住人の茂田家が敷地の傍らに安置させた。
万延元年(1860)この地に住む茂田半左衛門が子宝恵授を祈願して建立したものである。
 矢倉沢往還大山街道は旧道、新道合わせて南へ道をたどる。鳴瀬小学校沿いに歩き、歌川を歌川橋で渡ると、新しく出来た県道22号線を越えてすぐ信号機のあるT字路に出ると、糟屋宿に入ったのである。
この交差点が糟屋下宿で、左からの道は東海道戸塚の柏尾から分かれてくる柏尾通り大山道なのだ。
この道は、戸塚不動坂交差点から富士橋でJR東海道本線を跨ぎ、岡津、国際親善病院前(弥生台)、和泉小学校前、相鉄いずみ中央駅前を通り長後駅、用田、戸沢橋で相模川を渡る。戸田交差点を直進すれば糟屋宿に至る。
                  
 糟屋宿は平安末期頼朝のご家人に糟屋藤太有季という武将がこの地に住んでいたので地名となっている。現在の高部屋神社一帯が有季の居住した丸山城跡である。
明治三十四年の大火で焼け、宿場の面影はないが、かつては矢倉沢往還、大山参拝
普済寺の多宝塔
の旅人で賑わった。
 下宿から上宿に向かって歩くと「能条」という表札が多い。宿の中央右手に臨済宗千秋山普済寺がある。開基は室町時代関東管領であった上杉氏で、最盛期には多くの塔頭(タッチュウ)があったが衰退した。この寺で有名なのが本堂前の庭にある多宝塔であり、市指定重要文化財となっている。相輪までの高さが6mもある。
めずらしいのは、この多宝塔の台座に寄進者の名前がずらりと刻銘されていることである。“喜捨 松前家諸士庶人一統名簿”と読める。松前は蝦夷地である。
 この多宝塔は、もと高部屋神社内の神宮寺に建立されたが、廃寺となったのでここに移された。
普済寺から100m先の上宿の信号を左折し、50mで渋田川を道灌橋で渡ると大慈寺がある。
太田道灌の首塚
ここが太田道灌菩提寺の一つとなっている。
ここには伊勢原市の文化財として、木造聖観音菩薩像と太田道灌武者姿の画像がある。
川に沿って上流へ右側の土手を30m程行くと「太田道灌の首塚」(市史跡)がある(平成十八年九月現在史跡公園として整備中)。
 文明十八年(1486)七月、道灌は主君の上杉定正によって暗殺された。当時道灌の叔父周厳禅師(弟との説がある)がこの寺にいたため、首をここに埋葬した。位牌には「大慈寺殿心円道灌大居士」と法名が刻してある。
 尚、胴塚はこの先の洞昌院にあるが、太田道灌と上杉については、洞昌院の説明の際に詳述したい。

 さて大山街道に戻ろう。「上宿」の信号の先には現高部屋神社(旧丸山城跡、八幡神社)がある。相模国十三社の一つで、延喜式社である。鎌倉時代糟屋氏が館の近くに移設した寺である。現在の社殿は江戸時代の建物で藁屋根、向拝の唐破風には浦島太郎と乙姫の彫刻がめずらしい。また境内の片隅に神奈川県指定重要文化財の梵鐘がある。
説明によると至徳三年(1386)十二月河内守国宗によって作られ、平秀憲によって奉納された。相州大住郡糟屋庄総社八幡宮鴻鐘銘とある。
 街道は200mほどでR246と交差する。信号に従って横断すると、すぐY字路となるから左折して澁田川沿いに進む。やがて東海大学病院の前を通り500mほどで澁田川を渡る。
この角に「咳止め地蔵」が小さな鞘堂に収まっている。案内板の由来によると、下糟屋の村人達によって、享保八年(1723)に再建され、再三補修されて現在に至っている。
咳止め地蔵は昔から痰、咳平癒の守護仏として崇められ広く愛されてきたと言う。
 道はせきど橋を渡ると「市米橋」の交差点に出る。矢倉沢往還はこの交差点を左折し「田中」でR246に出て大神宮の前を通り善波峠、秦野に向かう。
                  
大山街道は右折して20mで畑に入る農道を行く。道の向い側はヤマト運輸の荷捌き所があるから目印にしよう。巾2mほどの砂利道を行く。両側はブドウ、梨の果樹園の中の道を行く。程なく左から4m程の舗装道路に合流すると秋山工務店前に出て、相模原-大磯線の県道63号「峰岸団地入口」交差点に出る。

 大山道はそのまま直進。団地の間を通り抜け丹波設備工業所前を通ると、東名高速道路に突き当たる。(峰岸団地入口からここまで600mほど)
高速道路をくぐり抜けると、目の前に双体道祖神が見える。“いいやまみち”、“ひなたみち”七五三引村(しめひき)と読める。道なりに歩くとやがて砂利道となり、250mも歩けば市光工業社員寮前に出る。この交差点の傍らに供養塔がある。
三所石橋造立供養塔、享和二□歳稔仲秋吉祥日、志願 洞昌十五代龍堂 上糟屋郷。
目の前に流れる小川に石橋を架けた時の供養塔だろうか。大山道はそれらしい大きな一枚岩で小川を渡る。

石倉道祖神
 道は市光工業社員寮前を小川に沿って歩く。道巾は2m程に狭まる。250m程で日向方面に向かうバス通りに出る。
交差点を横切り、小川沿いに遡ってゆくと、川の傍らに自然石に彫られた、寛政十一年(1799)六月□建立の道祖神がある。
“上り大山道”、“下り戸田道 厚木道”、碑の裏側には“右ハ田村道、左ハ□□□当村念仏講中と彫られている。
 尚も小川沿いに直進する事250mで舗装された道に突き当たるから、道なりに左折すると石倉橋のバス停前に出る。現在この道は伊勢原駅から大山に向かう広い道であるが、江戸時代の田村通り大山道である。
(田村通り大山道は、東海道辻堂の四谷から伊勢原藤沢線(県道44号線)に沿って大曲に出て、神川橋を渡る。田村十字路を横切り伊勢原駅に向かう道筋を言う。)
この角にあった石倉の大山道標は、大山に向かって30m先の公民館の前に並べられている。
洞昌院

 ここで洞昌院、大田道灌の墓を訪ねてみよう。先程の市光工業社員寮前の交差点を右折してすぐ左手に幡龍山洞昌院がある。草創は古く、平安時代後期の久安元年(1145)藤原氏の一族である糟屋盛季によって創建されたと伝える。鎌倉時代には糟屋有季が源頼朝に仕え寺も栄えたが、頼朝亡き後比企の乱に荷担して北条の為に滅ぼされ寺は荒廃した。室町時代に入り、関東管領上杉の館が糟屋上村に置かれると、上杉家の執事である大田道灌は洞昌院を再興し、上杉家の祈願所とした。この寺にも道灌公の位牌がある。
太田道灌の墓は洞昌院の裏手小さな杜の中に在り「大田道灌公霊地」と刻まれた石標が建つ。ここは伊勢原市の史跡となっている。
大田道灌公霊地
 1333年鎌倉幕府が滅び、足利尊氏が京都室町に幕府を開設すると、関東を統括する鎌倉公方(カマクラクボウ)が置かれ、足利氏が世襲したが、内部抗争が絶えず、公方の補佐役であった関東管領に実権が移ってしまう事態となった。関東管領もまた内部の権力争いに終始し、山内上杉と扇谷上杉との確執が顕著となっていった。扇谷上杉定正は糟屋に館を構え、部下に執事として太田道灌を置いた。

関東管領の上杉持朝は道灌の才能を愛し、持の字を与え“持資”と名乗らせた。道灌は上杉達の争いに対し、関東の和平を願い江戸城、川越城、岩槻城を作るがこれが逆に定正の疑心暗鬼に繋がり、文明十八年七月上杉定正の屋敷に招かれ、逆臣の汚名を着せられて暗殺された。亡骸は洞昌院の裏山で荼毘に付された。
 今、洞昌院には曹洞宗の寺であるが山門がない。道灌は定正に襲われたとき、ここまで逃げ延びて来たが、山門が閉まっていて入れず、ついに力尽きて刃に倒れたとも言われている。以来、洞昌院では山門に扉をつけなくなった。

 道灌のお墓にお参りして杜の外に出るとバス通りとなり、バス停台久保から北へ10m行き左に折れると、30m先に「七つ塚」がある。道灌に殉じた7人の従者を葬ったと言われ「7人塚」ともよばれている。上杉定正は道灌暗殺後、従者を一人として江戸城に帰さなかった。小さな五輪塔には“奉造立観世菩薩”享保元年子(1716)三月 相州大住郡上粕屋講中敬白と読める。
 七つ塚の先に“上粕屋神社”がある。山王社とも言われ、由緒は古く、天平年間(729〜749)良弁僧正(ロウベン)が大山寺を開創した時に勧請し、元禄年間には山王社、明治には日枝神社、現在は上粕屋神社となっている。参道の老杉が社の古さを物語っている。
上杉館跡空堀
この上粕屋神社の裏手一帯が上杉定正の館跡と言われている。
神社前の道を北に向かって坂道を下ってゆくと、この窪地が空堀の跡である。東西1km、南北500mの広大な台地で、鎌倉は真向かいに位置し、八王子道を経て武蔵川越に出る軍事、交通の要衝となっている。今は、一面の草原が秋風に揺れている。

 大山道に戻ろう。上粕屋神社前の道を南に行くと石倉橋に出る。今日はあちこち枝道にそれたが、街道だけをたどれば2時間一寸の距離である。
 石田為久を偲び、道灌の墓に手を合わせ、上杉の館跡に佇んで秋風に耳を澄ませば、芭蕉の“夏草や兵どもが夢の跡”の句が目に浮かんでくる。日が傾くまで800年の時空に思いを馳せるのも又、楽しい。
 帰路は石倉橋バス停から伊勢原駅行きに乗れば20分程で駅に着く。バスは1時間に3本出ているから遅くなっても大丈夫。

追記: 普済寺の多宝塔について説明の詳細は、湘南藤沢ウオーキング協会ホームページの“談話室”(11月14日)に記述しました。