連載


   ― 私のウオーキングの原点は徒歩通学です ― 
黒江 輝雄
  昭和20年8月15日の太平洋戦争終結の日を迎えたのは、私が 国民学校6年生の夏休みでした。翌年、旧制中学校に入学しました。 2年生の時に、教育制度が改革され、6・3・3の新制度になりました。 私達は新制中学校の2年生に編入されました。 高校生の3年間も同じ学校に通いました。 つまり私達は、中高6年間を同じ学校に通学したわけです。
ところで、この学校は市街地から離れた町外れにありました。 私の家からも5キロ以上はありました。
 
 当時の学校の規則では、市街地に住んでいるものはすべて徒歩通学が 原則でした。だから1日往復10キロの道程を6年間ずっと続けました。
当時は土曜日も登校日でしたから、1週間で6日、1年でざっと250日、 6年間で1500日、・・・10kmx1500=1万5千キロ。 これだけの距離を徒歩通学したことになります。
地球一周4万キロの三分の一は軽く超えた距離でした。
仲間のなかには私なんかよりも、もっと遠くから徒歩で通って来る生徒もたくさんいました。私と同年代の方々のなかには、私と同じような体験をされた人がきっと大勢いらっしゃるはずです。
 当時は、当世風のしゃれた履物はありませんでした。 ゴムと布製のズック靴を、雨の日も雪の日も毎日履いて登校していました。でも自分一人ではなくて誰もがそうでしたから、すこしも苦にはなりませんでした。・ ・ ・ ・
あれから半世紀以上が経ちました。
顧みて、今日こうして元気に例会に参加させてもらえるのも、学校で勉強した中味とは別に、知らず知らずのうちに、徒歩通学によって心身ともに鍛えられたことが、大きな要素になっているのかなあと思うようになりました。