連載
矢倉沢往還大山街道を歩く(8)
石倉橋―大山
池 内 淑 皓
  今日は石倉橋バス停から歩きます。
小田急小田原線に乗り伊勢原駅で下車、駅前のバス停で大山行に乗車し、石倉橋バス停で下車します。
 バス通りを大山に向かってゆるやかな坂道を行く。800m程歩くと、小易明神(コヤスミョウジン)・比比多神社
比比多神社
(ヒビタジンジャ)の石鳥居が見えてくる。この神社は創建が古く延喜式社の一つである。祭神は木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)で、昔から安産守護の神として崇められ、
細くなった向拝の柱
神社の向拝の柱を削り取って煎じて飲むと、安産出来ると信じられてきた。向かって左側が男子、右側が女子で左側の柱の方が細くなっている。現在の柱は三代目と言われており、これ以上削り取られないように柱を針金で巻き、鉄骨で保護してある。
また拝殿に歌川国経筆になる県指定重要文化財の「美人図絵馬」が掛かっている。

 大山道は次第に急坂となってゆく。易往寺(イオウジ)を過ぎ、大山郵便局を過ぎ、鈴川を加寿美で渡る。バス道路と分かれて旧道に入ると、道は急に狭くなり両側は先導師(大山講の信徒達を案内する人達)の家が並ぶ。このあたりは大山全山50の宿坊が集まる拠点となっている。
 江戸時代には各地から講を組み多くの人達が参詣に訪れた。夏山参りになると、宿の玄関先には大山講の板招きが掲げられて大変な賑わいであった。
道は阿夫利神社社務局の前を通り、愛宕橋を渡ってバス通りに出る。
程なく川の右手に良弁堂と良弁(ロウベン)の滝が見えてくるから、大山川を小橋で対岸に渡る。
良弁の滝

 良弁堂は大山寺開創の祖である東大寺別当の良弁僧正を祀ってある。別名「開山堂」とも呼ばれている。堂内には二つの像が厨子の中に安置されており、右側は“大山開山小児御影”、左側は“姥大日如来”と記されている。
堂の左手には良弁の滝が流れている。三丈二尺(約10m)の大滝で、大山参詣者はこの滝で身を清めてから阿夫利神社に向かった。

 良弁の滝からバス道路に出るとすぐ左手に入る細い道がある。“とうふ坂”と呼ばれる旧道で、傍らの説明板には参拝者がとうふを手のひらに乗せ、すすりながらこの急坂を上っていった、と記述されている。このあたりも昔の風情が色濃く残っている。
 大山道は道なりに大山川を渡り、右から上ってくるバス道路と合わせて、おみやげ屋や茶店が並ぶ賑やかなコマ参道を歩いてゆく事になる。

100m程歩くと、“ちゃとうてら”と彫られた石柱が見えてくるから、石柱に導かれて左折し、川を挟んで苔むした石段を上って行く。ここが誓正山涅槃寺(セイショウザンネハンジ)、別名茶湯寺である。
茶湯寺釈迦涅槃像
本尊は木造り釈迦涅槃像で市の重要文化財となっている。
 新編相模風土記稿(天保十二年(1841)江戸幕府によって編纂された地誌。相模国内の地理、歴史、自然環境、風俗、芸文などについて詳述されている)巻之五十一 大住郡の十から引用すると、{此寺ヲ土人茶湯寺ト唱フ、コハ道辺ノ農家死者アル時百ケ日ニ當ル日、當山不動エ参詣ス、其時死者ノ法名ヲ記シ、當寺ニ来テ茶湯ヲウク、故ニカク呼ベリ}と記述されている。

 元のコマ参道へ戻って更に200m程歩くと、ケーブルカー始発駅の追分に着く。石倉橋からここまで、見物しながらゆっくり歩いて2時間弱程度の距離であろう。
ここからケーブルに乗れば阿夫利神社下社まで6分、男坂を歩けば35分、女坂を歩けば40分程で行ける。今回は女坂を歩きます。
 目の前の大きな石柱「関東三十六番札所 第一番霊場 雨降山 大山寺」に導かれて歩いてゆこう。男坂は目の前の急な石段を上り、八意思兼神社右手の急な石段を登り詰めて行く。
女坂石標
女坂は緩やかに川沿いの遊歩道をたどってゆく事になる。
真玉橋を渡り、江戸時代から飲まれている「弘法の水」を水筒に詰めて行こう。この水は弘法大師が杖で岩を突いたら清水が湧き出し、以来枯れた事がないと言う。

断崖仏
 「もみじ橋」を渡ると橋の向こうに「子育て地蔵」の赤いよだれ掛けが目に入ってくる。この地蔵に願を掛けると子供が丈夫に育つと言われ、よだれ掛けがたくさん掛けられている。
 道は徐々に高度を上げながら石段を上り詰めて行くと、傍らに大きな一枚岩に彫られた「磨崖仏」が現れてくる。弘法大師が自らの爪で一夜にして彫ったと、説明板に書かれている。慶安五年(1652)と書いてあるから古い。
 やがて灯籠がたくさん見えてくると大山寺に到着する。追分けからゆっくり歩いて20分程の行程である。

 雨降山大山寺は縁起によると、良弁僧正が天平勝宝(755)に開山した古刹で、聖武天皇の勅願寺として房州、総州、相州三国の租税を以て賄われたと言う。二世である行基菩薩の高弟光増和尚が大山全域を開き、諸堂を建立した。その後三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所を開き、山頂の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存し神社を保護してきたが、明治の廃仏毀釈により現在地に移された。
大山寺
 尚、大山寺は真言宗大覚寺派の大本山である。
私たちもここで一休みしながら参拝しよう。ご本尊は鉄造不動明王で文永十一年(1264)願行上人が鋳造した。国指定重要文化財である。

鎌倉時代には源頼朝も、戦国時代には北条氏も、江戸時代には春日の局もこの寺に祈願している。
 さて大山への道は寺の右手を行く。朱塗りの「無明橋」を渡ると左手の高台に芭蕉の句碑がある。“山寒し 心の底や 水の月”女坂の七不思議の一つ「潮音洞」、「眼形石」を過ぎれば胸を突く急な石段となり、10分程辛抱すればやがて右から男坂を合し、二重滝への道を分ければ茶店が並ぶ大山阿夫利神社下社に着く。
 早速お参りしよう。新しく作り替えられた御影石の階段を上り詰め、左手の手水舎で清め本殿へ。阿夫利神社は別名「石尊社」、「石尊大権現」などと呼ばれている。

創建は古く、崇神天皇の頃と伝えられ、延喜式内社で祭神は“大山祗神(オオヤマズミノカミ)、雷神(イカズチノカミ)、高おかみ の三神を祀る。また海上から三角形の山の姿が良く見えることから、海の守り神として「鳥岩楠船神」(トリイワスクフネノカミ)も祀られている。
本社は大山山頂にあり、山の中腹にあるこの社は下社と言い、一般に「拝殿」と呼んでいる。標高は680mある。
 お参りしたら納めの木太刀を見てこよう。神社の右手の入口から中に入ると、文化四年(1807)に納められた長さ2.27mの太刀と、安政四年(1857)品川の大太刀講が納めた長さ2.3mの太刀がある。太刀には“奉納 大山石尊大権現 大天狗 子天狗 御宝前”と書かれている。
納めの木太刀の由来については、鎌倉時代頼朝は深く石尊社を敬い、毎年自分の佩刀を納めて天下泰平、武運長久を祈願した。これが庶民の間に風習となって広まり、開運・災厄除けの祈願として木太刀を納める習いとなった。帰りには代わりの木太刀を持ち帰って、自宅の神棚に供えた。

 折角だから大山頂上の阿夫利神社本社(上社)にも参拝してこよう。
下社の左手から30m先に注連縄が張られた鉄扉があるから、扉を開いていきなり急な石段を上る。一丁目から二十八丁目まで刻まれた石柱を数えながらゆっくり登ろう。このコースはハイキングコースにもなっている。
 上社は毎年七月二十七日から八月十七日までを夏山と言い、七月二十七日の山開きの式は、今でも元禄年間から続いている江戸日本橋小伝馬町(牢屋敷で有名。現十思公園、神田駅から歩いて10分)の“お花講”の講連中によって開山されている。

富士見台からの富士山
 途中樹齢500年の「夫婦杉」を見ると、やがて左から蓑毛道を合わせて十六丁目の追分けに着く。ここには高さ3m68cmの「石尊大権現」の大きな石柱が立っている。江戸新吉原町中の刻印が目立つ。
二十丁目は「富士見台」でここから見える富士山は美しい。
二十六丁目は「来迎谷」で、喘ぐような登りも次第に緩やかになってくると、ヤビツ峠への尾根筋を分けてすぐに銅製の鳥居が見えてくる。明治三十四年東京「銅器職」講中寄進の鳥居をくぐるとすぐに、江戸町火消し「九組」が建てた石鳥居が見えてくる。この鳥居を過ぎると大山山頂(1252m)である。
「阿夫利神社本社」と太く陰刻された石柱脇の石段を上れば社殿の前に出る。祭神は大山祗神。昔から「大山石尊大権現」などと呼ばれている。

新編相模國風土記稿によれば、{石尊社當山ノ本宮ニシテ山頂ニアリ、延喜式神名帳に載セシ阿夫利神社是ナリ、祭神鳥石楠船尊、身体秘シテ開扉セズ}山頂では縄文時代の土器や須恵器が出土しているから、有史以前からこの山に対する信仰があったに違いない。
 頂上からの眺めは雄大で、東南に相模原台地、房総、三浦半島、西に富士山、北に多摩、秩父と展望が開けている。
お昼頃に到着すれば、ゆっくりお弁当を広げるのも楽しい。下ってコマ参道周辺には名物の豆腐料理もあるし、愛宕橋そばには日帰り温泉もあるから、日本橋からはるばるここまで来た旅の疲れを取るにも都合が良い。丈夫な我が足に乾杯。
                         完