連載
「田村通り大山道」を歩く(1)
池 内 淑 皓

 相州の名山「大山」は鎌倉時代以前から良く知られ、江戸時代に入ると大山詣が盛んとなってくる。
江戸から大山へは赤坂御門から行く「矢倉沢往還大山街道」と、東海道戸塚から行く「柏尾通り大山道」と、今回紹介する藤沢から行く「田村通り大山道」等が良く知られた道筋であった。
 江戸庶民の大山詣への思い入れは、落語の“大山詣”が有名である。これらについては既に会報に連載された「矢倉沢往還大山街道を歩く」に詳述されているので湘南藤沢ウオーキング協会のホームページを参照頂きたい。また歩くに当たっての地図は、道路地図帳 神奈川県広域道路図 又は国土地理院発行の地形図二万五千分の一 藤沢、伊勢原が便利です。
 さて、「田村通り大山道」ウオークはJR東海道線の辻堂駅から出発します。改札を北口に出て歩道橋を下り、バスロータリーを左折して国道一号への案内板に従って歩きます。500m程先で明治市民センターと表示のある変則五差路交差点に出るから、右斜め前方の細い路地を行く。
10分程で旧東海道に突き当たるので、左折するとすぐに藤沢バイパスの合流点「四谷」の交差点に出ると、右手道路脇に銅葺の小さなお堂が見えてくる。

四谷の大山道道標のお堂と大山道 お堂内の大山道標

堂前の小道が「田村通り大山道」の起点となる。この先大山道は、大和田、大曲、一之宮、田村、大島、沼目を通って伊勢原、大山に到る約四里半(18km)の道程であり、ほぼ現在の県道伊勢原―藤沢線(44号)に沿っている。
 お堂の中には目に水晶が嵌め込まれ、火炎を背負った不動明王が乗る道標がある。


 正面には「大山道」と筆太に彫られている。延宝四年(1687)丙辰歳六月武州江戸横山町講中の人達が建立した。また、かつてはお堂の敷地内に三本に折れ、継ぎ合わされた万治四年(1661)と彫られた標柱があったが、今は撤去され新しく御影石で作られた標柱に代ってしまった。
この標柱は表に「是よ里右大山美ち」と陰刻され、裏には万治四年(1661)丑歳正月建立 天保六未歳(1835)正月再建、大正十二年九月(1923)大地震により倒壊再建するも、翌年一月十五日また大地震で倒壊十一月七日修繕建立、と経歴が刻まれていた。
東海道から分かれるこのあたりは柏屋、羽鳥屋、伊勢屋等の茶店で大いに賑わったと云う。
 大山道は小道を行く。20m程で石の大鳥居をくぐる。この鳥居は大山へ第一歩の鳥居であり、額束には天狗の面が架かっている。
万治四年正月木の鳥居として建立したが、朽ち果ててしまったので延宝四年江戸横山町の講中によって再建された。そして元禄十六年(1703)の大地震によりまた朽ち倒れてしまった。天保十一(1840)庚子歳六月再建・・略・・、そして昭和三十四年五月再建復興、茅ヶ崎端山銀次郎と鳥居の柱に経歴を彫り込んでいる。
 道は城南一丁目の交差点を直進するとすぐに小さなY字路に出る。ここに享保十二年(1727)に建てられた小さな野地蔵がこじんまりとお堂に納まっている。「正面大山 右のみち」と読める。大山道はこの細い道を左へ向かう。
500m程でクリーニング店前の五差路(餅塚の辻と呼ばれている)に出たら、広い道を右手にたどる。やがて妙行寺の山門を見て更に西へ歩くと、大山道を塞ぐように樹齢約400年の大欅が聳えている。村社神明大神宮である。
かつては参道両側に石燈篭が並んでいたと云うが、今は朽ち欠けてまばらになってしまった。中には元禄時代の燈篭も数基残っているので大事にしたいものだ。
また参道の傍らには銅鐘も置かれていて神仏混交の名残も見られる。本堂への道は高速道路のために寸断されてお堂もすっかり新しくなってしまった。
 大山道は西へ向う。高田一丁目にさしかかると本在寺の山門が見えてくる。日蓮宗のお寺であるが、境内墓域の中に“大岡越前守忠相(タダスケ名奉行)の祖父大岡忠葦の供養塔がある。寛文九年(1669)忠葦の妻が供養の為に建立したもの。
大岡忠葦の供養塔
 また本在寺の先100mに高田総鎮守熊野神社がある。
万治三年(1658)高田村の領主大岡忠高が紀伊熊野本宮より遷祀した神社で、熊野大神が祀られている。現在の社殿は昭和二年の再建と言う。隣には山王社(日枝神社)も祀られている。
 ここ高田一帯は、慶長八年(1603)大岡忠吉が徳川家康公よりこの地を賜り、明治に至るまで大岡家の知行地となった。
 大岡家累代のお墓は堤の浄見寺にある。浄見寺への行き方は、この先高田の交差点を右折し(県道404号線)2km程北の堤坂下を左折して尚も1km程歩くと、左手にセブンイレブンが見えてくる、その先の路地を左折する。更に100m程でまた左に折れると浄見寺の山門に到る。墓域は山門を入ってすぐ左側の高台にある。


 忠相のお墓は石作りの囲いの中にあって、戒名は墓石の正面に「松運院殿前越前刺史興譽仁山 崇義大居士」 宝暦元年(1751)辛未歳十二月十六日 墓石の横には 御奏者番 寺社奉行 俗名大岡越前守藤原忠相 行年75歳と彫られている。
 
大岡家累代の墓域 大岡越前の守忠相の墓

閑話休題:浄見寺の真向いに、茅ヶ崎市萩園から移築された江戸末期(安政二年)村役人の「和田家」住宅が、市文化財として展示されている。この建物は当時の建築物として完全な姿を今に留めていると言う。